捧げ物

□Meteorite
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瞳が壊れてしまうほどに、まぶたが裂けてしまうほどに。
擦る指が、痛い。それでも淡々と零れつづける透明な何かを、その意味を認めたくなくて―
見つめてはならない。知ってはならない。言い聞かせる声は虚しくて、その思いの大きさを、ただ思い知らせるだけだった。
ソファの向こうに座る男のその後姿さえも目に映らぬようにして、少女は膝を抱え込んだ。あたかも母の腹にねむる赤子のように。
慰めるような男ではないと知っている。知っているからこそ、かろうじてここにいられる。
もしも優しさを向けられたなら、それは今の少女にとってもっとも残酷なことだった。

期待、してしまうから。
愛されていないと、思い知らされるだけだから。

(・・・早く止まらないかな・・・これ)

涙、とは思わない。思っては、ならない。




Meteorite

愛が私の罪で、君の大切にしている美徳は憎しみだ、
それは罪深い愛にもとづく私の愛への憎しみだ。
 by William Shakespesre




事務所はもう、夜の帳に包まれていた。カタカタカタと乾いた音が響く、それ以外何も聞こえない。
少女は溜め息をついた。男は結局一言も口をきかなかった。どうせ今だってパソコンを弄っているだけだろう。
少女の頬には二筋の乾いたあとがはしっていて、そしてそれはここのところ毎日のようにあることだった。
瞳が赤く充血し、瞼が酷く腫れぼったいのも、そう。

限界が、来ているのかもしれない。
・・・もう、そばにはいられないのかもしれない。

このままだと、自分は壊れる・・・理解していた。それでもぐずぐずとまたここに来てしまうのは、やはり甘さなのだろう。
この男と・・・ネウロと別れる。そう思っただけで胸に響く嫌な軋みを、心が叫ぶ強い拒絶を、乗り越えることができないのだから。

せめて、許して。その日まで、隣にいることを。
私の願いなんて、あんたにはそれこそ羽根のように軽い。
知っている。でも、願わせて。私にとってこれほど切実なたった一つの願いを。



「ヤコ」



最も耳にしたくない、けれど最もいとしい声―。事務所を出ようとしていた少女の背へと投げかけられた、言葉。

「・・・何」

ぼそりと振り向かずに返事をすると、いきなり手前の壁に何かが突き立った。
それはどこの家庭にでも普通にある0.5ミリ芯のシャープペンシルで・・・
鉄筋コンクリートの壁に突き立っている様は中々にシュールだ。
こんなことができるのは、この男だけ。
彼、だけ。

「主人の言葉に生返事しか返さんとは何事だ」

「・・・あんたは私の主人なんかじゃない」

必要以上に硬い声が、出てしまった。数瞬送れて自分の言葉の意味に気づくも、言ってしまった言葉は返らない。
ネウロの顔色が怖くて窺えない。訪れるであろう拷問のフルコースを想像し、弥子は恐怖に身を震わせた。
この魔人は自分の「奴隷」が自分に逆らうことを何より嫌う。
せめて早く終わってほしいのだが・・・今日の魔人の様子ではそれも叶わないだろう、おそらく。
全くこちらに関心を示さないどころか、今の今まで喋りさえしなかったのだ。不機嫌の絶頂だ。
用心深く身構える。
次に来るのは何か。最近お気に入りの腹部にエルボーか、首筋にチョップか。それともごくごくシンプルにバックハンドドロップか。
・・・最近、プロレス業の名称にだけは異様に詳しくなってしまった気がする。

ところが、予測していた魔人の仕打ちは、どれひとつとして行われなかった。

「ヤコ」

低く低く、呼ぶ声。
手招きする大きな黒い手。

「ヤコ、来い。メテオライトだ」

思わずぽかん、とその手を見つめる。

「貴様…とうとう節足生物にまで成り下がったか」

「し、失礼な!!」

「来いと言っているのに来ない。言語すら理解できないのかこの下等生物」

「あーもうわかったよ!」

新手の拷問でも思いついたのか。仕方なく方向転換をし、今日初めて魔人と向き合う格好になった。
微妙に目をそらす。まともに彼の顔を見たらきっと何もかもがぐちゃぐちゃになって、また瞼を腫らすことになってしまうから。

「何だってのよ」

ぼそり、呟くように言う。さもないと、きっと見抜かれてしまう。必死に押し殺しているものを。
・・・苦しい。辛い。喉に熱いものがこみあげるのを感じた。下を向く。

「貴様は阿呆か?メテオライトだと言っておろう」

「何、それ・・・?」

心底呆れ果てた目で溜め息をつかれ、ぐい、と背中を押された。

「うわ、何すん・・・・・・・・・え?」

上げかけた抗議の声は、しかし驚きの叫びに取って代わった。

「これ・・・」

「メテオライト、隕石だ。貴様らはこれを流れ星、とも呼ぶな」

「でも・・・こんなにいっぱい・・・」

「流星群。流星物質が太陽の周りに描く楕円軌道を地球が横切るとき出現する…何がなんだかわからないという顔だな、ウジムシめ」

「…はいはい、どーせ私はウジムシですよー…でも、綺麗…」

本当に、綺麗だ。
たくさんの星たちが、一度に地上に降り注ぐ夜。美しい。
そこにある傲然とした美しさと圧倒的な力は、妙に何かを・・・誰かを思い出させて。
こんなときでさえ消えてくれないその存在がどれほど大きなものなのか、またしても突きつけてみせる。


「ネウロ」


名前を、呼ぶ。

「何だ。ヤコ」

「願い事、しても、いいかな・・・?」

また、呆れ果てた目をされる。
解ってるよ。あんたにとっては存在する事実がすべてで、そこに意味を見出そうとする私たちの行為は不毛にしか見えないんだろう。
願い事なんてその極致だ。

でも。

「叶うはずのない望みができてしまったなら、あんたはどうする?」

この男にはきっと無縁なものだと思いながら。
しかし、意外にも男は真剣に思い悩んでみせた。

「ふむ・・・叶わない望み・・・か・・・」

私たちは、もうこれ以上何にもできない、何かしても変わらないと思うとき、せめて奇跡が起こってほしいと、祈る。

「できないことが多すぎるから、叶わないことが重すぎるから、私たちはせめて流れ星に願いを託すの。
もしかしたら叶うかもしれない、それだけでも楽になれる気がするから」

でも、逃げるために願うわけじゃない。その願いの辛さも悲しさもすべて背負って、向き合うために願うのだ。

ねえ、ネウロ。お願い、そばにいさせて。感じさせて…貴方を。
何でこんなこと、してくれたのかはわからない。
でも、こんな美しいものを見つめる余裕すらなくしていた私に、あんたは手を伸ばしてくれた。
・・・自覚はなかったのかもしれないけれど。
そうやってあんたはいつも私に救いを与えてくれる。
私は、だからあんたのそばにいたい。叶わない望みだと知っていても。
一方的な思い、通じることなどけしてない。

それでも、

「・・・ヤコ、また星が流れた」

「うん、見たよ」

流れ星、ねえ、聞き届けて。私のちっぽけな願いを。
愛することを、許してください。


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