捧げ物

□ダフネの花
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ダフネの花


祗園精舎の鐘の声
諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色
盛者必衰の理をあらはす
驕れるものも久しからず
ただ春の夜の夢のごとし
猛きものもつひには滅びぬ
ひとへに風の前の塵に同じ

平家物語「祗園精舎」



「ヤコ、貴様は月桂樹のギリシア名、ダフネというのだが、その由来を知っているか」


いつものように事務所で何となく宿題をしていたら、背後の魔人から突然声がかかった。


「月桂樹…って、あの香辛料の?ベイリーフとかローリエとか言うやつ?」

「貴様はつくづく食欲奴隷だな。食材については異様に詳しいとみえる」

「…うん、それは否定しない…」


悲しきかな、「否定できない」と言ったほうがより正しい。
魔人は溜め息をついて、説明を始めた。


「ギリシア神話に出てくるニンフの名前だ。その逸話を集めたものとして、オウィディウス『転身譜』が有名だな。
日本の教育指導要項には入っていた気がするが…習わなかったのか?」

「…絶対、入ってるわけがないと思う」

魔人はフンと鼻を鳴らして、

「単に貴様が愚かなだけだろうが」

とほざいた。弥子は抗議の声を上げようとして、諦め魔人の話に付き合うことにした。
なぜだろう。いつものように軽口を叩くだけにしては、魔人の表情がいつになく真剣だったからかもしれない。

「ニンフとは、ギリシア神話において最高神ゼウスの娘とされる美しい女たちだ。
そしてこの物語が紡がれた当時、最も美しいとされていたニンフがダフネだった。
しかし彼女は美しいがゆえに高慢で、それが愛の神エロスの怒りを買った」


魔人の声は低く淡々としていたが、同時に深く柔らかく弥子を包み込み、知らぬまに彼女を物語の世界へといざなった。


エロスが怒りのままに、ダフネと美しき太陽神アポロンの心臓に矢を射ち込んだこと。
アポロンの胸に射ち込まれたのは金の矢、そして彼はダフネを愛することを定めづけられた。
しかしダフネの胸に射ち込まれたのは鉛の矢…そしてダフネはこの世のいかなる人をも愛せなくなった。

アポロンは必死にダフネを追うが、ダフネはその愛を拒絶するあまり、父王ゼウスに自らの身を動かぬ樹木に変えてくれるよう懇願する。
その願いを聞き入れたゼウスは彼女を月桂樹へと変身させ、二度と彼女を愛せなくなったと悟ったアポロンは、悲しみにくれながらその枝で冠を造ったのだという。


「見てきたように、語るんだね」

「見てきていないとどうして思う?」


冗談でしょと言いかけて、その瞳が真剣であることに気づいた。


「…あれはいつもあの女のことばかり考えていた。
あの女がどうしたら振りむいてくれるのか、どうしたら自分を愛してくれるのかと…そればかりを毎日我が輩に問うた」


魔界の逸話が地上に伝わって神話や伝説となる例は少なくないのだ、ヤコよ。


「奴はもちろん地上の伝説が伝えるような神などではなかった。
とてもみめかたちが美しいだけの、多少魔力が強いだけの、ただの男にすぎなかった。
女が自ら望んで月桂樹と成るのを止められはしなかったのだ」

「……」

「我が輩は奴を嘲笑った。たかが女一人のために痩せ細り死にゆこうとする奴を見て。
枝を手折って冠を造ってまで、奴は女とともにあろうとした。
しかしすぐにそれが身代わりに過ぎぬことに絶望し、やがて奴は死んだ。不様な、哀れな死に様だった」

「……」


男はそこまで語って、突然少女の瞳をひたと見据えた。
この男のこの表情は、苦手だ。
少女の知るかぎり、男はいつも不適に笑っているから。
…笑みを浮かべる余裕さえないほどに真剣な言葉を聞かされるのだと、理解しなければならなくなってしまうから。


「…ヤコ。かつて馬鹿馬鹿しいと嘲笑った感情が、しかし今我が輩の中に確かに存在している」

「それ、は、」

「…ヤコ。我が輩は逃がしはしない」


薄く赤いくちびるを細く細く開いて。紡がれる言葉は蜘蛛の糸。危うく煌めき、獲物をいざなう。


「ダフネのように、貴様を月桂樹に変えてくれる父はもういない。
そして、たとえ何者かが貴様のその身を他のものに変えたとしても、我が輩は必ずや貴様を見つけ出す。
そしてこの手に取り戻すだろう」


それは。
まるで、あいのこくはくの、ような。


「あるいは、怖い…のかもしれん」

「なに、が、」

「我が輩は奴とは違う。魔界の謎を喰い尽くしたこの脳で、必ずや貴様を見つけ出す。
そして、…おそらく、貴様を壊してしまうだろう」

激情に駆られて。それを抑えるすべを、我が輩は知らないのだ。

「ヤコよ。逃げるな」

我が元から離れるな。

「他の何がこの掌から零れようと、我が輩気に留めはしない。しかし貴様だけは何があっても許さない。
いいか、ヤコ。よく聞け」



我が輩、食欲に勝る欲の存在を、この地上ではじめて知ったのだ。



「………っ!!」


その意味を、その言葉の持つ本当の意味を、この地上でただ一人理解しうる存在である少女。
それゆえに彼女の耳は硬直したようにあらゆる音を遮断する。
男の静かな…狂気にも似た静けさを孕んだ、たった一言の台詞が幾度も幾度もリフレインされた。


食欲に勝る欲の存在を。
この地上で、はじめて。


「ネウ、ロ」



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