捧げ物
□Agony
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Bound to my heart as Ixion to the wheel,
Nailer to my heart as the Thief upon the Cross,
I hang between our Christ and the gap where the world was lost
by Edith Sitwell
ひどい腹痛が全身を苛んでいる。
少し疲れ気味だとか、気分が悪いなどというレベルの辛さではなかった。
めったに病気などしない自分の体がはっきりと警鐘を鳴らしている。
何よりも奇妙なのは―学食の中でも好きなメニューベスト3に入るカツカレー定食を眼の前にして、
全く「食べたい」という衝動が沸いてこない、ということだった。
「弥子、あんた、大丈夫?」
向かいに腰掛けている親友が不安げに声を掛けてきた。
目線が自分の手元…というかそこに置かれた手をつけられていないカツカレー定食に向いている。
食べる気がしないと言うのは弥子にとってかなりの重大事なのだと、親友も理解しているのだ。
口元に苦笑めいた笑みを浮かべてみせて、「うん、大丈夫」と答えた。
その途端、ごぼり、と吐き気がこみあげてくる。
「少し…疲れすぎみたい。寝れば治るよ…たぶん」
「あんた最近、働きすぎじゃない?いくら今をときめく女子高生探偵だからって、多少は休みとらないと過労で死ぬよ?」
心配そうな友人に、力なく苦笑してみせる。
―そんなこと、できるわけもないのだ。
最早、自分の生活はすべてあの魔人に支配されているのだから。
それでも、友人の思いやりはありがたかった。
せめて安心させようと半ば無理やり口元の笑みを大きくしてみせる。
「大丈夫だよ、ちょっとお腹痛いだけだし。―それより叶絵、合コンどうだったの?」
物問いたげな視線を無視し、強引に話題を変えた。
―この話はしたくない。
魔人のことを、彼と自分のことを、今は少しだけ忘れていたい。
聡い叶絵も何かを敏感に察したらしく、それ以上は何も言おうとはしなかった。
そして、今に至る。
―これは、さすがにまずい、かな…
全身が熱っぼいのに、電車のクーラーが肌を刺す寒さとなって衣服の隙間から侵入してくる。
これまでは気を張って「大丈夫」と言い聞かせ続けていたためか、ひどい腹痛くらいで済んでいたのだが…
電車の中で座ってしまったのがまずかった。
張っていた気が一気に緩み、同時に凄まじいめまいが襲ってきたのだ。
必死にニット地をかき合わせ、少しでも寒さから身を守ろうとする。
けれど、内側からこみあげてくる吐き気と腹痛はどうしようもない。
―どう、しよう。帰ろうか、な。
家に帰ろうかとも考えてみるが―すぐにその可能性は脳から消えた。
どのみち今日、母は出張だし、手伝いの女性も休み。
自分ひとりしかいないのだから、帰ったところで意味がない。
結局、私には、あいつの所へいくことしかできないんだ。
苦笑めいた表情をし、縛られている自分を呪う。
それでも、彼女は何かに突き動かされるかのように、いつもの道を辿っていた。
半ば朦朧としながら階段を上る。
景色がぐにゃりと歪んで見える。気を抜けばくずおれそうな体を叱咤しながら、やっとのことで小さなドアの前に辿り着いた。
彼女にとって何より馴染みの、そして何より遠い空間。
「桂木弥子魔界探偵事務所」―
「遅いぞウジムシ」
奇妙なスカイブルーのスーツを身に纏った、顔立ちだけをとってみれば女性と見まごうばかりの秀麗な男―
机の上にすらりと長い脚を組み、華奢にすら見える腕を脚の上に乗せている。
彼が求めたなら、世のあらゆる女性が身を投げ出そうとするだろう。
―桂木弥子、ただ一人を除いては。
「ご…めん…ネウロ…」
けれど、弥子にとってその名前は、もはや痛みを持ってしか唱えることができない。
「?ヤコ、どうした?」
「…何でも、ないよ」
懸命に笑みらしきものを作ってみせる。
…だが、魔人は簡単に騙されてはくれなかった。
品定めをするかのような厳しい表情を浮かべ、手招きをしてくる。
「―ヤコ。こちらへ来い」
どうやら誤魔化せそうにない。
仕方なく、弥子は手招きに従ってネウロの隣のソファに腰掛けた。
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