Parallel
□第五章 出【しゅつじ】
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「腹減った……」
夕暮れ時の京の都で、吾代忍は力なく溜め息をついた。ここ2,3日、まともに食べ物にありついていないのがその所以である。
仲間の男たちも皆同じような有様で、力なく座り込んでいた。
朗報が入ったのは、その直後だった。
「吾代さん!!朱雀大路を、やたら高そうな直衣来た男が一人で歩いてるぜ!!」
最近見入りのいい「仕事」のなかった吾代たちにとって、それはあまりにも魅力的な話だった。
飛びつくのは、当然のことであった、はずだ。しかし、吾代は嫌な予感をどうしても拭えずにいた。軋むような違和感を感じていた。
吾代自身にさえ、わからない感覚であったが。
しかし、それはあまりにも美味しい話であった。そしてこちらの人数に対して相手が一人であるという事実が、吾代の「感覚」を鈍らせた。
現実問題として彼らは餓えており、そんなあてにならない感覚を根拠に美味しい話に飛びつかずにいられるほどの余裕は持っていなかったのである。
とにかく、吾代はそのとき、他の仲間に、後々深く深く後悔することになる指示を出してしまった。
「オラ、仕事すんぞ!!」
……と。
「オイ、そこの優男なにーちゃんよぉ。ちょーっと俺たちに時間くれねぇかな?」
いつもの手順どおり、吾代の手下の一人が目の覚めるような青の直衣を纏った男に声を掛けた。
これから起こるであろう出来事に、薄笑いさえ浮かべながら。
男は警戒するような表情になり、数歩後ずさった。
遅すぎんだよテメー。吾代は内心で嘲笑う。自分たちに目をつけられ、取り囲まれた時点で、もうとっくに遅すぎるのだ。
夕闇が邪魔をし、さらに男が黒の更紗をその頭に被っていたこともあって、顔は定かにはわからない。
けれど、その下で浮かべているであろう恐怖の表情は容易に想像できる。
吾代はほくそ笑んだ。上等じゃねぇか、え?今日はなかなかの収穫がありそうだ―
「時間をくれ、と問うたか」
…はぁ?何言ってんだこいつ?頭おかしいのか?
そう思った俺を、誰が責められるだろうか。
だってよぉ。実際問題、誰が考えるかよ?
世の中には、まさに「化け物」としか呼びようのない存在もいる…ってことをよ。
「我が輩に、時間をくれ、と問うたのか。そう言っておる」
「あぁ?てめぇ頭悪いのか?聞いたことも理解できねぇのかよ」
手下がにやにや笑いをさらに強くして、男に手をかけようとする。
そのとき。
黒の更紗がめくれた。…男の素顔がさらされた。金と黒の髪、緑の瞳が。
その口元がおびえに引きつってなどおらず、…むしろ笑みの形に歪んでいることに気づいたときは、もうすでに、…遅かった。
「では、時間をやろう。ただし、…10数えるまでだ!!」
男の体が、舞った。
「・・・貴様は、なかなか使える人間のようだな」
口元に薄い笑みを浮かべて、男がカツ…カツ…と近づいてくる。
もはやその空間の中で意識を保っているのは、吾代自身と…その男のみ。
周囲には、おびただしい数の人の…吾代の手下たちの、体。生きているのか死んでいるのかもわからない。
この男は、それだけの人数を一瞬にして沈めてのけたのである。
佩刀している様子はなかったというのに、明らかに刃物を使用したと思しき大量の血…
着衣も、返り血の一滴も浴びておらず、それどころか乱れさえしていない。
血の赤と男の服の青が、奇妙な対を成していた。
吾代だけをあえて放っておいたのは、頭であることを見抜いたからか。あるいは他の理由があるのか…
どのみち、今の吾代に選択肢は残っていない。死ぬか、この男の言葉を黙って聞き続けるか、だ。
「…貴様、死にたいか」
阿呆のように首を振る。それ以外の何も、できなかった。目の前の男の圧倒性に打たれて、身動きすら取れない・・・。
あってたまるか、そんなこと!!俺は…これでも、これまでたくさんの修羅場を潜り抜けてきてるんだ・・・!
仕事柄、危ない目にあったことなど数え切れない。実際に死に掛けたことも、1度や2度では利かない。
そういう人間でないと、裏社会では生き延びられないのだ。
…しかし、今目の前に立っているこの存在は。吾代の許容量など簡単に凌駕してみせたこの男は。
あくまで酷薄な笑みを浮かべて、こう言ったのだ…
「しかしやはり愚かだな、この直衣の青の意味すら知らんとは…襲う相手を間違えるにもほどがある」
そう、そのときの吾代が知るはずもなかった。
直衣の「青」は、天皇だけの纏う色。他の者にはけして許されぬ、禁色なのだということを。
「ふむ…そうだな…」
考え込むようなそぶりで、男が顎に手を当てる。吾代は恐怖のあまり、思考の止まるのを感じた。
オレハコイツニハケシテカナワナイ
オレノイノチハコイツノイシヒトツデクダケチル
ニゲルコトモキョヒスルコトモオレニハユルサレハシナイ
そして、永遠にも思われた一瞬が過ぎたとき、男は口を開き、こう言った…
「貴様に興味が湧いたな…」
「へ?」
おそらく、素っ頓狂な声だったと思う。確実に殺されると、覚悟していたから・・・
けれど、その次の言葉には、驚く声すら出てはこなかった。
「貴様、右大臣になれ」
* * * * *
「…まあ、そういう訳だ」
なるべく淡々と語ろうとしたのだが、…おそらく、みっともなく声が震えていたのは気づかれてしまっただろう。
無理もない。思い出すだけで恐怖に身がすくむのだ。あの時感じた圧倒性、絶対性に適うものなどありはしない。
「…要するにあんた、盗賊出身な訳ね…ま、いいけど」
…いいのかよおい。あんた兵衛府督じゃねぇのか。
突っ込みは心のなかだけにして、吾代は口を噤む。
と、笹塚がなにやら言いにくそうに口を開閉させた。なにやら迷うような表情をした後、意を決したようにポツリと言葉を漏らす。
「……そんなら」
何を、言いだすつもりだ。
「あんたの方こそ、何で陛下の下にいるんだ」
あ……
「陛下がそれほどに恐ろしいなら、なぜ黙って従っている?逃げ出そうとしない?」
「……」
吾代は思わず考え込んだ。
笹塚の問いはまさに彼の核心を突くものだった。本心を抉るものだった、と言ってもいいだろう。
―何でだ、か。
アイツが恐ろしいから、か?
「―いや、違う、な」
笹塚が訝しげな顔でこちらを見てきた。
「あー…何つったらいいのかね…」
吾代はガシガシと頭を掻く。
「あいつ…帝はよ、とんでもなく強い。おっそろしく頭も切れる。あいつの眼に映らないことはない。
あんたもそれは身に沁みて知ってんだろ?」
笹塚は無言で首肯する。
今日もそうだったではないか。自分たちの誰一人として見抜けなかったことを、一人だけ、閉ざされた世界の中から見抜いてみせた男。
「ところが、よ。最近なんとなくわかってきたんだが…あいつの眼は『視えすぎる』んだよ。
そのせいで、見なくてもいいモン…自分に向けられる『悪意』ばかりを視てきてしまってるんだ。
だからあいつは、基本的に『人間』に何も求めない」
「……」
「ところが、あいつは何故か俺を…盗賊でしかも自分を襲った人間を、右大臣にしやがった」
そうだ。
それこそあいつにとって、俺は『自分に悪意を向けるもの』でしかないはずなのに。
「知りたい…わけ」
「ぁあん?」
「陛下が、何であんたをわざわざ傍に置くのか…知りたいわけ」
沈黙でその問いに答えを返す。
笹塚はそれ以上、何も聞きはしなかった。
しばし、何も言わずに廊下を歩く。コツ…コツ…と、二人分の靴音が響く。
沈黙を破ったのは、同時だった。
「陛下に―」「あいつに―」
2人は思わず互いを見る。2人とも、互いが何を言おうとしていたのか…理解していた。
あの、人にはけして適いはしない、圧倒的な存在に。
恐れず逃げず、ただ純粋な想いを向けて、手を伸ばすことができる者がいるのなら。
ああ、どれほど救われるのだろう、
孤独しか知らない男は。
To be continued.
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