よろず小説

□闇の中
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夏と一言で言っても、日の長さと暑さはイコールにならない。



始終湯気を吹きつけられているような夏の終わり。道端の草花すら汗をかく。
青い匂いがした。


本当は少しも終わりじゃない。


「夏休みも折り返しだな」

あの日からオレはがむしゃらで、走り込みもオーバーペース、タイムを見た監督はあまりいい顔をしない。

引退したというのにうちの元主将はぴったりついてきた。


高校生としてはゆったりした口調。
「宿題はやってるか?オレはこの時期からいつも焦りはじめるよ」
「大丈夫、です」
「お前去年は後回しで半泣きだったじゃないか」
「へ、平気、‥っす」

先輩は前に回り込んだ。

「休め。話が出来ないほど走るな」



練習場から学校までのランニングルートには小さな湖がある。
入り口の看板はさびつき、白鳥の形をした脚漕ぎボートはみにくいアヒルのように薄汚れていた。

昔はレジャーで賑わったらしいが、今は波打際に近づけなくなるほど草が伸びている。


赤い。


「日が落ちるの早くなりましたね」

湖面も空も全て赤い。オレは首にかけたタオルで顔を拭いた。

「オレはこの時期からが夏の終わりだと思っていたんだがな」
先輩はタオルを忘れたらしい。オレが差し出すと首に二、三回だけ当てた。



「こんなに早い夏は初めてだよ」


オレは先輩ではないし先輩にはなれない。
だから感じ方は同じにならない。

ただできるだけ同じであろうと思い起こす。梅雨も明けていない、夏休みも始まっていないあの日。

とうの昔に夏は終わったのだ。




トーナメント戦の勝敗の確率は二分の一。いくら練習しても防御の穴を塞いでも、チームの優劣で確率は動かない。
だから負けは何もおかしくないのだ。


最初は楽勝だと思った。相手は創部間もないたった10人のチーム。前の日もシード校が40点の差をつけてそんな学校を負かしていた。


相手が予想外に強かったからじゃない。


オレが上がり性だということ、体力がまだ伴わないこと。
去年甲子園に行ったという驕り。
雨にからめとられるようなしょっぱいフォークを武器にしたこと、
そして小さな一年生に打たれるシンカーを誇りにしていたこと。



いくら投げてもアウトにならない夢を、つい最近まで見ていた。


タオルが返された。
「練習サボった分を無理矢理取り戻そうとするなよ」
「わかってます」

そしてありがとうございますとつぶやいた。


試合に負けて、すべてが終わったと感じて、夢にうなされて苦しくて、外部の情報がけたたましく感じてテレビも新聞も見られなかった。学校も部活もエースの座もどうでもよくなった。


だが、先輩も同じだった。負けて引退しても夏休みまでつきあうのがうちの三年のならわしだ。しかし先輩はしばらく練習に来なかったらしい。


そして先輩はある日、オレを呼び出した。

お前はまだ一年あるって、言って。


オレと先輩は同じで、でもやはり違う。最も違うのは先輩に「まだ」がないこと。


先輩は全く逆からあのグラウンドを眺めていた。マスクをかぶり、オレのヘロ球でもなんでもストライクにした。今までいろんな捕手に投げてきたけど、先輩以上の人はいない。

なのにオレは「まだ」を届けられなかったのだ。



先輩も毎日夢を見たのだろうか。オレの球がミットに入らずみんなどこか遠くに飛んでってしまうような。

そんな陳腐な夢は見ないか。


「あの」
「少し休めたか?」
「何があったんですか?」
「お前はいつも唐突だな」
「練習に来てくれて、感謝してるんです。だから聞きたいんです。きっかけとか、あったんですか」


オレは一人で起き上がれなかった。負けを糧にできなかった。
なのにこの人はわざわざ起こしに来たのだ。

夏をダメにした後輩は憎くなかったのか。先輩は技術だけでなく人間も出来ていたけれど、どんなに我慢したってしきれない想いはあったんじゃないのか。



遠くで声がした。「ああごめん、先に行っててくれ」上の道を走る部員に声をかける。皆が手を振りつつ走り去る。


虫の声がひそりと浮き上がった。

湖はいつの間にか黒くなり、夕焼けと混ざり込んでいる。




彼は、オレを見据えた。



「きっかけは‥なければいけないか」

ゆったりした声がゆっくりとオレを縛る。


「きっかけがないと、お前は納得できないのか」

先輩の目が湖と同じ色だった。

いやに、黒かった。



首を振るしかなかった。



先輩は、今のオレには得体の知れない何かを掴んだのだろう。苦い苦い敗北の末の、渦を巻く湖のような何かだ。

伝達してはならないし、口で説明して分かるもんじゃない。
来年オレが、後輩に伝えるために体感しなきゃならない。


だけど、そんな深い闇色なのか。負けから立ち直る力はそんな深さなのか。

個人に対する憎しみなんて、ちっぽけなんだ。先輩はもう、次に進んでいる。



「かなり離されたぞ。急ごうか」
「はい」


何故オレが振り返ったかはわからない。走り出す前にふと、光を見つけた。


完全な闇にのみこまれた水辺、真珠のような光がちらりと舞っていた。


(蛍だ)


闇に沈まないと、静寂に沈まないと、あれは光らない。

見つからない。




「ほら、早く来いよ」
「今、見えませんでしたか?」
「何が?ユーレイか?」



いつか先輩は見つけるはずだ。
そして蛍は綺麗な水辺にしか棲まないことを、


いつか、知るのだろう。
 
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