よろず小説
□リセットの時期
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この学校には面倒臭い校則がある。
制服の胸ポケットに必ず名札をつけること。学校を出た瞬間に外さなきゃいけないこと。
外さなくてもいいかもしれないけど、この街で名字を胸に掲げるのはとても危険。新幹線が高い高い場所を飛行機のように飛んでいくこの地域には、深い深い沼のような場所が潜んでいる。
私たちはそれを知っているから、日が沈んだらソフトの練習もそこそこに名札を外して帰る。
今思えば、一つだけいいことがあったんだ。
中学みんなの名字がわかったこと。
あの人の名字がわかったこと。
部活強制加入の校則がある学校は大変だなあと思いつつも、授業が片付いた途端帰っていく人の波を見ていたら、毎日白いボールを追っかけてるこちらはなんだろう、とちょっと寂しくなる。
だって練習してもしても、うちのソフト部は強くならないもの。
その波の中でまっさきに駆けていく人がいた。
帰宅部とは思えない黒い肌、上体のぶれない走り方。
ゆらゆらとした波に負けず、直線に鋭く消えていく。
波に浮いていた。
じゃんけんで保健委員になってしまい、初めての委員会。その人はずっと、ただ机につっぷして眠っていた。
「しのーかさんも押し付けられたクチ?」
それから隣すわっていい?と一言。去年同クラだった男子が話し掛けてきた。
「栄口くんは自分からでしょ?偉いね」
彼はただ、ふふふと笑った。頼まれるとイヤと言えない人だけど、いじめられるタイプじゃない。クラスの女子全員に話しかける非常に珍しい人だった。
「あんまりになり手がいなかったからね。それに保健室の先生好きだから」胸のあたりで仕種をする。
「思ってもない事言わないの」
あとで悪かったなあと思うんだけど、この時の私は女の子と仲良くしてる男子はナヨナヨしてると思っていたんだ。
だけど、栄口くんは男子にも分け隔てなく付き合いがある人だってことは知っていた。
「窓際の一番後ろで寝てる人、知ってる?」
「ああ、阿部のこと?しのーかさんも同じクラスになったことないんだ?」
彼はちらりと後ろを見てニヤリとした。
「あいつ女子に人気あるんだよね」
その言葉には何かが含まれている。
この人は妙に察するとこがあるから一目置かれてるんだった。
私は眉をとがらせた。
「授業中も寝てたりするの?態度悪そうだけど、なんかヤンキーなの?」
「んーん」
目を閉じて首を振った。「あいつは授業とか学校とかカンケイなくて、ただ野球なんだよ。父さんからきいた」
「え?」
「だから、あいつは学校終わったら即野球。疲れ果ててるから学校では寝てばっかなんだって」
お父さんからの伝聞ってのも気になるけど、ちょっと待って?
「あの人帰宅部だよね?」
すると栄口くんは白目がちな目をぱちぱちした。
「しのーかさん、うちの野球部の状態知ってるよね」
「あ」ソフトと違って、部員が足りなくて大会に出ていない。だけどうちの生徒が野球嫌いなわけではないのだ。
「あいつ、シニアチーム入ってるんだよ。つーか野球好きなうちの連中はだれかれシニアだよね。かく言うオレもだよ?」
「えっ」
私の驚きの後しばらく間が空いて、栄口くんはため息をついた。
「そっかー、しのーかさんはオレが帰宅部の引きこもりだと思ってたんだ〜」
頭を下げると、日に焼けなくてねえと気にしない風に笑った。
うちの街の周辺にはけっこうシニアチームがある。男子は高校野球が最終目標だから、中学で握らされる軟球に見切りをつけている。
そういうの見てると、うらやましい。女子の硬式チームもあるにはあるけど遠すぎて通えない。
あの人は栄口くんと全く別のシニアなんだそうだ。しかも去年は関東大会まで行けたとか、その時点で正捕手だったとか、寝ている姿からは想像がつかなかった。
そういう人がきっと甲子園に行けるんだろう。
‥私もそろそろ腹をくくらないと。
阿部くんの下の名前はタカヤ、らしい。成績はいつも10番以内。寝ても勉強しなくても頭いい人は本当にいる。
寝ていない私は今度の中間で数学の点数を落としてしまった。
目指している春日部市立は彼ぐらいの成績じゃないとダメだ。
「今ちょうどいいのって西浦じゃないの?あそこ制服なくて自由じゃん、それなりに進学校だし」
クラスの子はいうけど、西浦は肝心なものが存在しない。
硬式野球部。
野球部のマネージャーになってベンチでスコアをつける。私の思い描いた三年後が台なしになってしまう。
そう言ったら笑われてしまった。どこの漫画の影響なの、あんたはソフトできるんだから続けなよ、西浦ソフト強いじゃん。
灰色、というより沈んだ青を含んだ空。
梅雨でぐしゃぐしゃになってしまったマウンド。水溜まりに大きなスポンジを押し付ける。力を抜くと土がよみがえる。持ってきていたバケツに絞る。
「ちーよー、そんなの下にやらせなー。もっとやることあるでしょ」
副キャプが一年を呼び付けようとするので、ユニフォームを掴んだ。
「ダメ。マウンドは他にさわらしたくないの。あんたも足滑らせたくないでしょ?」
「そりゃあそうだけどさ」
投手でもある彼女は肩を落とした。「ちよはそういうの好きだよね。あたしゃ絶対にやりたくないけどねぇ」
私はえへへ、と笑った。「うん、よくわかんないけど好き」
「高校で女子マネやりたいってホントなんだね。脇役でいいんだ?」
泥水がバケツにたまっていく。
いろいろと考えたことはある。
プロ野球に好きな選手がいて、雑誌を買うようになって、だけどその選手が引退してしまった時、今度はもう少し若い人達の野球を知った。
屋根もない古い球場、つい最近まではツタが絡まっていた。たった二週間、何故あんなに盛り上がるんだろう?好奇心は一気に膨らんだ。集める雑誌や新聞は倍になった。
近所のお兄さんが野球をしていた。頭をわしづかみされるほどお兄さんは大きかった。いつか私も大きくなるんだって思ったのに、身長は150ちょっとで止まってしまった。そして、今の規定では行けないということも分かった。
「ただ好きな事を頑張りたいんだ。できないことをできようとするのは違うと思う」
お兄さんのチームは全然勝てなかったけど、その後マッサージ師の資格を取って今はメジャーリーグにいる。選手に付いて体調管理を任されているのだ。
彼がいなければ選手はバッターボックスに立てない。野球はいろんな人が働いて成り立つ。私が立っているショートのポジションですら、誰かが土をならしてくれている。
当たり前が当たり前のままで変化なく存在するのはすごいことだ。
レフト周りはまるで川辺。水溜まりから草が這い出している。バケツを持って立ち上がると、今日も阿部くんは一生懸命帰り道を急いでいた。
「かわいい」の基準は曖昧で千差万別、1組の三宅さんみたいな子の事を言うんだと思っていた。
「篠岡さんはかわいいって良く言われない?」
私は女の子にあるまじき焼け方をした腕や足を見た。ユニフォームの形そのまんまで色が分かれていた。
「こ、これっぽっちも」
「かわいいよー、うちのクラスの奴らは結構見てるよ」
保健委員の当番。学校中ありとあらゆる流しの石鹸を補充する作業。二人一組で行うことになっていて、私と組んだのが小谷くんという男子だった。
栄口くんと仲がよさげだったから、話し掛けやすそうだなと安心していたんだけど。
「ソフトって大変そうじゃん、忙しいの?」
「忙しいよー。この仕事も委員会だから認められてるだけですよ」
「でも土日は空いてるんじゃないの」
「試合ですよー」
「じゃあその次の週は」
「次も試合」
何を聞いているんだろう、そして私は答えているんだろう。
小谷くんはうちのクラスでも人気ある。明るくて目立つ存在だ。
栄口くんと同じで誰にでも明るく話すらしいんだけど、栄口くんみたいに「きいたら答える」んじゃなくて「きかなくても話してくる」。
これ、しつこいっていうんじゃないのかな。
「真面目だなあ」
「もう大会が近いですから」
「そういうのだるくない?」
私は表情をかたくして石鹸を容器に注ぐ。「だって私、キャプテンだし」
小谷くんは下から覗き込んできた。「たまには息抜きしたほうがいいよ。オレら受験だしさ」
「小谷くん、私部活急がなきゃいけないからピッチ上げてこうよ」
石鹸の入った缶を渡す。小谷くんはそれを弄ぶようにゆらゆら動かしている。
「篠岡さんて頭いいし、キャプテンだし、いろいろやりすぎなんじゃないの?今度カラオケとか行かね?」
回り道してたのか。「私、オンチなんだよ」
「いーじゃんオンチ、是非聞きたい」
ああ、なんだろ。
放課後だから見回すかぎり誰もいないし、うんと言わなければ抜け出せないような気がする。
だけど、
「少し楽に考えた方がいいんじゃないの?責任とか今から考えてちゃいつかポッキリ折れるかもよ。頑張ってる奴って偉いと思うんだけどさー、オレらこれからが大事じゃん。部活なんかちょっとサボったって誰もはっきりグチらないと思うし、オレがゆってやんよ。そういう事言う奴も余裕ないからかわいそうだし」
すごくすごく怖かった。疲れる折れる崩れる壊れる。なんでこんな恐ろしい言葉をさも親切そうに話すんだろう。
だからといって拒絶をすれば、
‥拒絶って、そんな怖い表現。
あたしは「拒絶」しなきゃいけないほど、ぐらつきやすいのだろうか。
小谷くんが突然、うわっと小さく叫んだ。
その背後に日焼けした男子が立っている。
あくびをした。そしてちょっと近眼のように目を細めた。
「ご、ごめん」
私たちは廊下いっぱいを占領していたらしい。小谷くんが脇に寄ると、彼はさっさと階段を降りていった。
今の、きかれたんだろうか。
そう思ったのは小谷くんも同じらしく、あとはずっと黙って作業し、当番が終了した。
恥ずかしいと思ったのはその夜布団に包まってからだった。びっくりするほどの鈍さでさらに恥ずかしくなった。
微妙とはいえ半分コクられてる所を見られるのは誰だって恥ずかしい。
いや、あの人は私がコクられてるなんて思ってないかもしれない。
ただフラットに状況を見ていただけなら、あたしが勝手に思ってるだけだろうか?
頭を抱えた。
それ、自意識過剰じゃん!
日焼けでひりひりする腕を、胸を抱えるふうにさする。そうでないと破裂するくらい苦しい。
「っていうか‥」
寝返りを打った。
なんでこんなに恥ずかしいんだろう。
暗闇がふと四角に切り取られ、お母さんが顔を出した。
「どうしたの」って言わないといけないくらい、お母さんに表情がない。
「ちー、ちょっと、話があるの」