拍手御礼SS-log

□Surface
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「一番好きだ」と。
そう他人に宣言された時程、如何ともし難い心地になる事はない。





surface






「先月見たような雲がね、また出ないかと思うのに全然駄目なの」

毎日違うのだ、と。
写真機を手にした君は、微笑みながら取り逃がした風景を思う。

「今日の空は昨日より随分青いなぁ」

空を見比べる習慣のない俺には、格別青くも薄くもない唯の青空だった。
この街で毎日同じ空を見ている筈なのに、まるで別の世界に住んでいるみたいだ。
大体そんな主観的な事言われたって。
発言した本人も会話にするつもりがないらしく、ただ一人で空の色を堪能している。

君はいつだって自己完結気味。
それがこの世を楽しむ秘訣なのだろうか。

「最近は、指が痛いって言わないんだね」

「全然!世界中の人と握手したいくらい!」

細まった瞳が眩しくなる。

飛躍し過ぎた前向きさと笑顔。
途端に俺の内側は黒々として、鳩尾の辺りがずしりと重くなる。
迷いなんてないと言わんばかりに表情を開くさまは得意げで、何かのアピールを含むのだとしたら、今すぐ無かった事にしたかった。

そんな俺の胸の内など知らず、君は入道雲の輪郭を目で追う。
横から延々と生温い風が吹き、この季節にぱっかりと開いた、大ぶりな花の分厚い花弁を揺らしている。


「私ね、昔から夏が一番好きなの」

不意に、君はそんな自覚を口にした。
そうして今度は、「夏空」となった空を眺めている。


ああ、ほんと嫌だなぁ。


高くへ昇った日の光は強く、入道雲の隅を透かしていたかと思うと、急に視界の中心に差し、空の青を強烈な白で引き裂いた。
俺は目を細め、視界に映り込む僅かな全てから顔を背ける。

温い風の中でじっとりと、汗ばんだ君の首筋に濡れた髪が張り付いている。

熱と湿り気とに挟まれ、君の足元では土や草が蒸されている。
鮮やかな熟成と腐敗が隣り合う季節。
日々を過ごす上での鬱陶しさばかりをなじっていた俺は、この季節の持つ雰囲気に呑まれる事を只管拒んできた。

煩わしいんだ、こんなにも。

焼けるほど熱く、干乾びていく。
水分を奪われている事にも気づかず衰える世界の有り様を遠くに見る。
生物に過酷な環境を強いる癖に、当の季節自体はきらきらとして迷いがない。
そうかと思えば時折、午後になると灰色の空から駄々漏れた様な雨を降らせ、そんな時には世界が閉じるかの様に辛気臭くなった。
渇き疲れた皮膚や目が、不意を突く生温い夕立に潤され、冷まされる。

苦しくなる。
どうしようもなくなる。
この胸の息の苦しさこそ、この季節を嫌いな理由だと思っていた。


「エンヴィー」

君が名を呼ぶ。

気づきたくなかった。
他人の自覚が、自分の意識に与える影響に。


夏の朝も、夜も、夕方も。
大嫌いなんだ。

無視出来ない程に鮮烈な季節。
瑞々しい草叢が開いては閉じる、艶やかな花冠の様な日々。

夏が、一番好きな季節だと。
忌憚なく言える君が、こんなにも妬ましいのは何故。


「エンヴィー」

君が俺の名を呼ぶ。近づいてくる。

「一番好きだ」なんて、言いながら置いていくお前なんか大嫌いだ。
そんな愛おしそうに、この世界を感じないでくれ。


「エンヴィー?」

お前は戦争孤児だ。
内戦中に手の指を数本失くし、義指を買う金もなくそのままだ。
だから真夏でも手袋をしている。

…ねぇ、生きるのは辛くて煩わしくて哀しい事ばかりだと嘆いてよ。

己の前向きさも誠実さも実直さも、他人の笑顔も涙も。
どうか、全ての人間のあり方のあれこれが、いよいよ疑わしく思えて信用できないと惑っていて。
挙句、そんな風に感じる自分の感覚にすら、「卑しい」と呆れていて欲しい。

思わず笑いが漏れた。
君は不思議そうに俺の名を呼ぶ。
その瞳には、少し心配の色が浮かぶ。
浮かんでいる様に見えた。

「健気さのアピールと取れなくもない」なんて。
頭の内、誤差の範囲でほんの片隅に生じた穿った見方までわざわざ意識するなら、どうとでも捉えられて切りがない。
余計な認知を行うから現実が歪むのだ。
事実ばかりを積み上げていく先に、何があるのか。

黙っている内にもう一度名前を呼ばれそうな気配がする。
それを阻みたくて、腕を掴んで思い切り引っ張った。
見開かれた瞳が、空の色を映しながら見上げてくる。

勢いで、君が肩に紐で提げていた写真機が宙に浮く。
反射的に伸ばした君の、片腕の先にあるのは、指先が空の手袋。
掴まれなかった革紐と一緒に、精密機器は誰にも救われず地面に落ちていった。

さっきまで一人で喋っていた君は、何も言わない。
華奢な胴体を引き寄せて腕の中に収め、こんな暑いさなかに無遠慮な力で抱き締めた。
その内、彼女の何処かで球形の汗が星の様に流れ落ちる。
君は息を詰まらせる。
酸素を求め、小さく吐いて吸う音がした。
そんな様子も気に留めず、相手の肩甲骨を絞る様に再び力を入れた。

…この腕の下で。
感情を挟む隙も無いくらい、君が純粋に生き物として迷惑そうにしていたらいいと思った。

人間にすれば脳が揺れるほど暑い筈で。
こんな状況に何も言わない君の、濡れたうなじだの無防備な耳だのを見ているとどうにも苛めたくなって、益々振り回したくなる。

「…不幸そうにしてるあんたが好きだって言ったら、怒る?」

相手の肩口にもたれて囁く。
質問の答えはともかく、まずは炎天下で二人じっとするこの異常な蒸し暑さに文句の一つでも言って欲しかった。

それなのに。
目を合わせた君は一瞬の間を置いて眉間をくしゃりとさせたら、消えそうな笑顔で小刻みに頭を振った。

…大袈裟な笑顔の次がこれ?
だから人間は分からない。

太陽に焦がされ続ける君の両肩を遠ざけて密着した身体を離すと、土の上に落とされたままのカメラを拾い上げた。

いやに軽い。
落下の衝撃で開いたらしい蓋が半開きになっている。
覗いたら、フィルムが入っておらず中は空だった。
付近に転がっている様子もない。

「……」

尋ねようとしてやめた。
もう空がこの世からなくなったかの様に、君は手袋越しに地面ばかり見つめていたから。

一つの言動で人格を判断している内は、おおよそ一人の人間の姿など見えてはこないという事なのか。



君はいつも、仕方のない事ばかり俺に気づかせる。

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