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□Squall
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Squall










不幸は突然降ってくる。







「応援部隊が来るまでは踏み込まない。我々の任務はあくまで偵察だ。いいな?」

「了解」

彼女のよく通る声が、湿った空気の中へ新緑に似た色を落とす。
見通しの悪い道は先で幾筋かに分かれていた。
二人は一旦別れ、一時間後に再び此処で落ち合う約束をした。

彼女の答えを聞くと同時に、名無しさんは自分の指の先をナイフで切りつける。
滴る血を材料に鉄剣を錬成すると、鋭く振り下ろした。
腕に馴染む重みの感触を確かめる。


「行きましょうか、大佐」

錬成陣の描かれた銃を腰に差し、彼女は歩き始めた。
長い髪が揺れて靡く。




「少佐」

名無しさんは遠くなる後ろ姿に声を掛ける。
部下であり、古くからの友人である彼女に。

「…くれぐれも、気をつけて」

上の強い命令に渋々従ったが。
名無しさんは今、この場において単独行動を取る事に大きな危機感を覚えていた。
いかに国家錬金術師と言えど敵の規模も数も分からないのでは当然分が悪い。
加えて、先の部隊からなんの連絡も無い事も、大いに名無しさんの不安を肥大させていた。

「君に…。君にもしもの事があったら、私は彼に合わせる顔がない」

「…分かっているわ。私も、まだ死ねない」


彼の仇を討つまでは。

力の無い微笑を浮かべた彼女の、
強く、底知れない悲しみと憎悪に満ちた声が、名無しさんの耳に聴こえた気がした。







自分の足音だけが耳に響く。
触れる軍服が湿気を帯びて重く感じた。
朝の内には晴れていたというのに、今は溶けた雲に濁され、
黄土色掛かった空が延々と広がっていた。
十分な明るさがあるが、果てしなく鈍い、鮮明さを欠いた底の見えない色をしていた。


「…一雨来そうだな」

名無しさんは銀時計の針に目をやる。


三十分ほど経過していた。
剣は幾度か番犬役の合成獣達を薙ぎ払い、血を受けて暗くぎらついていた。


…彼女は大丈夫だろうか。

彼女は一流の、
腕の立つ、間違いなく指折りの錬金術師だ。
だが今は心が衰弱している。
本当は傷ついた彼女を戦場へ連れて来たくなどなかった。
しかし上から命令が下る以前に、
今回の作戦に加わる事を申し出たのは他ならぬ彼女だった。


「……」

名無しさんの勘が告げている。


行く先には間違いなく、あの男が居る。



徐に首から提げた鎖を引っ張り上げた。
ジャラ、と重い音を立てる。
名無しさんはその先に繋がれたロケットを強く握り締めると、湿った土を踏んで再び歩を進めた。






…初めてアレに遭ったのは、いつだったろう。

例の内乱の最中だったと思う。
彼がまだ生きていたあの頃。








「あんたの相方。」

頭の中で声が響いた。

男は名無しさんの前に現れるなりそう言った。
相方というのが誰を指すか、名無しさんにはすぐに検討がついた。
二人はいつも共にあった。

男は名無しさんを、彼女を、そして彼女の恋人の事までも知っている様子だった。
しかし目の前で愉しげに喋り始めた相手と名無しさんは、全く面識も何も無かった。
それだけに薄気味悪かった。


「可愛いよね。凄く。あんな可愛い生き物初めて見た。あのヘボ大佐が夢中になるのも分かる」

無邪気に笑う華奢な青年に、名無しさんは終始眉を顰めたまま、ただ黙って剣を向けていた。
咄嗟になんの反応も出来なかった。
相手が何を言っているのか理解出来なかった。
男に遭遇した事自体、実のところ戦争が終わって随分後になって思い出したのだ。

戦火の熱を肌で感じ、硝煙の臭いに巻かれ。
戦場という特殊な空間で名無しさんの精神は磨耗していた。
自分がまともなのかそうでないのかという問いも捨て、ぎりぎりの線で生きていた。
其処彼処に噴出する轟音と閃光を掻い潜る中で、男は一人異様だった。
不穏な空気と悪意は持っていたが、悠々と全身に生温い平和を纏っていた。


「アレは人間ではない。そして奴は傍観者だったのだ」と。
今ではそう理解している。







「戦場で考え事なんて、随分余裕だね」


名無しさんは顔を上げる。


「久しぶりだねぇ、中佐」

馴れ馴れしく笑う、その顔が視界に入った瞬間。
名無しさんは地面を蹴って相手に斬りかかっていた。
叫びながら無茶苦茶に剣を振り下ろす。

「あああッ!!」

「…おっと。何怒ってんのさ」

切っ先をかわし男は笑う。
焦燥が名無しさんの一歩先を行く。


…この男を斬らなければならない。
絶対に絶対に絶対に。


「…あぁ、ごめんごめん。今は大佐だったね」

「…!」

「上の席を空けてやったんだ。感謝しろ」

「っ貴様ぁッ!!」

悲鳴の様に叫び、名無しさんは剣を両手で構えて身体ごと突っ込んだ。
その時だった。
目の前の標的が分解して形を失う。
長身の、若い軍服の男が現れる。

びくりと、切っ先が震えた。
名無しさんの足が止まる。



見慣れた、懐かしいすべて。

名無しさんの頭の片隅で、記憶の断片が映し出される。
開けた瞳の上の目蓋のすぐ裏で、
血が、死に様が、蒼白した顔が、

齎された死が。





…あの日、この化け物が彼を殺したのだ。





あり得ない幻視に、わなわなと名無しさんの腕は震えた。
自分の名を呼ぶ幻聴が聴こえた。
男は哀しげな表情を作って笑うとこちらへ一歩踏み出す。緩く瞬く。
生きている動いている。




冒涜。

その言葉一つが脳内にこだまする。
指が震えて息が上がる。
踏みじられた何かに、絶望に、心が壊れそうだった。

…悪趣味な。
名無しさんがようやくそう思った頃、友の口が開く。

「随分と大人しいね。先の戦争での君ときたら、
それはそれは猛々しく誉れ高い英雄だったのに。
…なぁ?鉄剣の錬金術師」

黒い物が見えた。
手の中の銃口が。
放たれた弾丸が名無しさんの脇腹を撃ち抜く。
ぐらりと視界が傾き、濁った空と木々が世界を覆う。
水の、驟雨の気配が立ち込めている。

腹を押さえて名無しさんは転がる様に倒れた。
そのまま呻いていると、ざらついた足音が地面を通して近づき、すぐ傍で止まった。
優しい、穏やかな声が降ってくる。

「僕が君に、最期になんて言ったか、覚えているか?」

「………」

「酷いな。忘れたのか?あれほど言っておいたのに」

「…黙れッ!」

言い終わるのとどちらが先か、名無しさんは髪を掴まれた。
息の触れる気配に目を見開く。

「あいつを頼む。」

耳元で囁く声。
名無しさんは奥歯を強く噛み締めた。

酷く悔しそうに、そして穏やかにあの時そう言ったのだ、彼は。


…だから。
だから斬らなければ。
この男を。

見上げた瞳は彼の物ではない。
薄い、紫色の、爬虫類の様な無機質な目。


斬らなければ。
斬らなければ。

どんな形をしていようが。




「あははははははっ!」

男は突然、壊れた様に笑い出した。

「…そうだよねぇ。斬れないよねぇ。あんた、昔っからこいつの事が大好きなんだもんねぇ!」

名無しさんは強引に上体を起こすと、全身の力を込め鉄剣を振った。
飛び散る大量の血の色から目を逸らす。

脇腹が痛み、よろけて膝をついた。

「…その姿で喋るな…穢れる」

名無しさんがそう吐いて捨てると、男は再生しながら薄ら寒くなる様な笑みを浮かべた。

唐突にその腕が名無しさんの懐に飛び込み、その胸元の鎖を強く引いた。
苦痛に顔を歪め、名無しさんは短く呻く。
目の前で、錬金術で封じたロケットが呆気無く開かれる。

男はまた、堪えきれなくなった様に声をあげて笑った。


「結局女なんだねぇ、あんたも」

写真と同じ顔で、程遠くかけ離れた醜い笑みを撒き散らして。
見下す目は侮蔑の色を孕み、口元は覚束無い視界の中で更に歪んだ。



「なんで殺した」

思い掛けず、名無しさんの口からそんな言葉が発せられた。


「馬鹿な質問するなよ。そのくらい自分で考えな」

「…あの子か」

「ふふ。何、憎い?俺が?それとも大好きな男に愛されたあの子が?
…ああ、君に見向きもせず死んだ僕が、かな?」

「っ…貴様に…貴様なんかに!彼女の髪の毛一本やるものかッ!!」

名無しさんは声を張り上げ、思う様に動かない身体を無理やり走らせた。

刃が相手の腹を掠める。
なりふり構わず斬りつけると、少し驚いた様な顔が目に入る。
男は大きく後退して間を取った。

身体がついてこない。
名無しさんは尚も張り子の化け物を睨みつけた。


「…やれやれ。完全に勘違いしてるね」

それも二つも…と、男は、エンヴィーは呆れた風に溜め息を吐いた。

「愚かだね。理を知りたがる癖に都合のいい真実しか見ないんだからさ」

パキパキとその身体が分解していく。
幾度か見た、黒尽くめの青年が名無しさんの前に現れる。



「あの子なら死んだよ。さっき殺してきたから」



「…嘘だ」

思わず声に出した。
嘘だと。名無しさんは否定しか出来なかった。

…戦場に蔓延する死。
だけどこんなのは嘘だ。
この男はただ私を動揺させ捻じ伏せようとしているんだ。





―――ガシャン。

重く硬い音がした。
エンヴィーが地面に拳銃を投げ落としたのだと気づく。
見れば、銃の側面には赤い陣。
その部分だけがぐしゃりと潰れている。


「……、な」

「だーから言ってるじゃん。見たいものしか見てないって」

名無しさんの視界が揺らいだ。
空が、濁った空が今にも滴り落ちそうだ。

「こんな所までのこのこ出て来たあんたらが悪いんだよ?
まぁ…、命令したのは俺なんだけどね」



焦点が合わない。

声が出なかった。
そして名無しさんは、白くなる頭の中で必死に記憶を引き摺り上げる。

名無しさんは上官に直接会って命令を受けた訳ではない。
名無しさんはあの上官を慕っていた。
信頼していた。
だからこそ異議を申し立てた。
でも届かなかった。

届く筈もない。

…あの時、血迷った命令を下したのは。
伝令からもぎ取った受話器で話した冷酷な将軍は。
あれは。

「あの子、本当は人柱にする予定だったのにさ。
人体錬成の気配もない。
扉を開けてくれるかと思ったのに、とんだ期待外れだ」

彼女は一流の、優秀な錬金術師。
そして彼を深く深く愛していた。

「……あり得ない。だってお前は…」

彼女が欲しかった筈だ。

名無しさんは呟く。
美しい生き物を、生きたまま手にしたかった筈だと。

「…だから言ったろ?お前達は主観で事実を都合良く解釈し、
自分の選んだ偏ったお粗末な真実しか見たくない生き物なんだよ」

言って、エンヴィーは呆然とする相手に一撃食らわす。
名無しさんは、地面へ仰向けに倒れ込む。




…斬らなければ。



「ぐ…ッ」

「あ〜あ。可哀想に、もう腕も動かないんだ?」

相手の言う通り、血を失い過ぎた名無しさんは動けなかった。
此処で終わりか、そう思うと悔しくて、失った者を想うとやり切れなかった。



「…なんで…」

…どうしてこんな事になった。

二人はもう何年も前から恋人同士で、
結婚を前にした二人を見ても名無しさんの心は穏やかだった。
名無しさんは長く彼を慕っていたが、その間彼とどうこうなりたいと思った事は一度も無い。
尊敬の念に近かったのかもしれない。
人は憧れと呼ぶのかもしれない。
彼への想いはずっとそっと、しまっておこうと思った。


彼と彼女と、自分と。
いつも一緒に。
それで名無しさんは良かった。
幸せだった。
大好きな二人の側に居られて名無しさんは確かに幸せだった。

…嘘ではない。

それが完璧な真実ではなくても名無しさんには十分だった。
それは同時に完全な嘘でもないのだから。

幸せは個人の解釈により、断続的に降るもの。
臆病な人間の名無しさんにとって、十分な幸せの形だった。



それなのに。


「…どうしてだ…」

名無しさんは半ば放心状態で呟いた。
音が自分の中で反響する。


エンヴィーが、うーん、と唸って首を傾げた。


「分かんないかなぁ」

困った様に首を捻る。
名無しさんがそれを眺めていると、その後ろからぽつりと水滴が落ちて来て、あっという間に地面を覆い尽くした。
脆い土に無数の穴が開いて水溜りの上を水が跳ねる。

長い髪の毛が、自分の顔にべっとりと張り付いてくる。

…何故、私は今独りきりで、
地面に倒れ込み、
こうして雨に打たれているのか。

こんな惚けた問いを浮かべる所が、
目の前の男の言う人間の性質なのだろう。




「それはね、」

エンヴィーは名無しさんの心の声に応える様に言った。


「俺があんたを好きだからだよ」







激しい雨に気圧されてか、
それともエンヴィーと名無しさんが相容れぬ別種の生き物だからか。

その時の名無しさんも、
やはり目の前の相手が何を言っているのか分からなかった。






明るい空から振り下ろされる雨の中、ただ遠雷が、
遥か彼方でいつの日かに聴いた爆音の様に轟いていた。

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