拍手御礼SS-log

□Pause
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あと少し。
夢見るものに手を伸ばして。


でも何かしら足りない。







Pause





「失敗、だな」

一頻りの恍惚の後に訪れる、この寒さが名無しさんは嫌いだった。
冷静に目を凝らせば、無駄なものが拾い切れないくらい細々と散乱している。


ちっとも「あと少し」じゃない事に気づいてしまう。
一気に落胆する。
夢中になって自分は何を作っていたのか。
ちらりと、名無しさんは重い目蓋の下から現実に出来た物質を観る。

…全然違う。
こんなものが欲しかったんじゃない。
頭上に描いたのは、もっともっと、もっと…。

歳を経るほどに見る夢は現実に近くなり、小さなものなら手が届くのではと思い込めるほど夢の無い夢も増えた。
同時に、狭まる何かに押し潰されまいと足掻いていた。

不完全だと口に出せばそれにすら届かない失敗作だと思い知る。
現実に戻され、置き去りにされる冷たい感覚。
名無しさんは眉間に深く皺を刻む。
額を押さえながら、前より少し細くなった自分の手首を見つめた。


「…時間がないなぁ…」

時間は常にあり、常にない。
分かり切っているけど、実感が理性を凌駕するから口にする。
…無駄に歳ばかり取ったものだ。

床に転がったフラスコを掴んで、叩くように白い机上へ置いて。
名無しさんは山積みになった泥屑の塊達を掬って袋に詰め始める。
安価とはいえ材料をまた無駄にしてしまった。
何より毎度後始末に困る。

力んだ爪の先が乱暴に床を抉った時、黄緑色の窓辺のカーテンが少し多めに舞った。
名無しさんの知った顔だった。

「…あんたか。ちょうどいい。…手貸してよ」

彼女がそう言うと、窓際の男はぱちくりと幼子の様にその目を瞬いた。
いつもこんな顔をしていれば愛嬌があっていいのにと名無しさんは思ったが、そうはいかないようで。
男はすぐに目を細め、毒のある笑みを浮かべた。


「珍しい事もあるもんだね」

出窓の脇から勢いよく飛び降りると、床に転がる本や器具を無視して慣れた足取りで歩いてくる。

「で?具体的な話をしようよ。」

名無しさんは自分より少し高い場所にある、挑発的な目を見上げる。
清々しいほどのこの悪意が、彼女は時々羨ましくなる。


「何が欲しい」

なんだか期待に満ちた目だった。
だけど、名無しさんにそのつもりはなかった。

「あー、具体的にはだね、あんたの仲間の大食い男を貸して欲しいんだが」

「…はぁ?なにそれ。つまらないな」

名無しさんの予想通り、エンヴィーはやる気を失った様に机に座り込んだ。
どうにも椅子に座る習慣が無いらしかった。

この男とその仲間が此処に出入りし始めたのはいつの事だったろう。
以前はよく派手な容姿の女も見掛けていた。

「…貸してくれないのか。ケチだな、人造人間は」

狭苦しい研究室兼自宅に住む名無しさんの身には、エンヴィーがたまに連れている大食い男の異次元空間が非常に魅力的に映る。
ただし見境なく無制限に物を食らう生き物なので、手綱を引いてくれる者の協力がないと始まらない。


名無しさんは台所に立ち、熱気を帯びたやかんを手に取って火を落とす。
研究を始めて幾年。
もしも行き詰ったらいつでも手を貸すと、エンヴィー達はしきりに言っていた。
彼等が与えたがっている物と名無しさんが欲しがっている物はきっと一致している。
しかし手を出すのはさすがに薄気味悪いので、研究材料としても有効な無料ゴミ処理場くらい借りてみようかと思った訳だが。

エンヴィーは何故か黙っている。
それは長すぎる間だったろうが、徹夜明けの頭には気にならなかった。
名無しさんは凝り固まった肩をほぐしながらコーヒーを入れる。
最近は徹夜が身体にこたえる。
カップの中に注がれ満ちる温もりと心地よい濃い香り。
目の前に立ち込めた湯気に、人知れず目蓋が緩く下がった。



「今は居ないんだよね」

不意にぽつりと聴こえた声。
名無しさんが顔を上げると、相手の姿がなかった。

近すぎる気配に振り返ろうとした矢先。
突然の事に、ぐ、と名無しさんの喉の奥から音が漏れる。
いつの間にか背後に立っていたエンヴィーに、彼女は首を絞められた。
否、後ろから抱き締められた。

カップの中のコーヒーの表面が大きく揺れて戻る。
やかんの注ぎ口から足元に飛んだ湯はかろうじて避けた。

「…苦しいんだが」

殺す気か、と名無しさんが文句を言えば、それもいいね。と静かな声と共に首が絞まった。

「…嫌なにおいだね」

「あ!」

払い除けられたカップが地面に落ち、辛うじて割れず、ぐるりと円を描いた。
彼女の腹を心地よく温めてくれた筈だろう液体が、床の上で絵の具の様に無残に散開する。
異なる感覚で、名無しさんは少し腹部が熱くなるのを感じた。

「っこの、なにす…」

「ねぇ、あんたはあとどれくらい生きるの?」

そんな問いと共にエンヴィーの腕がきつくなる。
喉が圧迫されて声が出なくなる。

「…ッ」

…これは、ちょっと尋常じゃない。

冗談なのか本気なのか分からないほど力が加えられた時、名無しさんはその腕に爪を立てて背後の男をきつく睨んだ。
嘘の様な紫色が、室内に入ってくる微量の光に沈黙している。
瞳孔が爬虫類みたいだ。
その目が、今日は少し揺れている気がした。


「長くは、ないよね」

愈々右手にある熱湯を掛けてやろうと思い立った時、絡まる蛇はするりと解け、名無しさんは何度か無理に咳をした。
エンヴィーは何事も無かったように椅子にもたれると、俯き加減に地面を見つめて。
彼の露出した足の先が無意識に名無しさんの失敗作を弄っていた。
その瞬間から、ただの泥屑が何故か急に死体に見えてくるから不思議だった。

沈黙する完璧な人造人間が、名無しさんが今日この部屋でお目に掛かりたかった完成品の代わりに椅子に座っている。
それなのに、それは今日に限って人間のような哀しい目をしている。


「……」

…どうして。
どうして同じ悪意でも、こうも美しさに差があるのだろう。
有限の者の浅ましさがそうさせるのか。

名無しさんは、使う機会を失った熱湯をテーブルへ置いた。


「…なんのつもり」

「慰めてやろうかと」

両腕で、名無しさんは形の良い頭を抱いた。
なんのつもりかなんて彼女は知らない。
別に知らなくてもいい。
どの道、この男との時間も仮初めの間でしかない。

どんなやり取りも、全ては互いにポーズでしかないのだ。

「…は。何、研究に足りない脳ミソ使い過ぎて遂に頭おかしくなった?」

憎まれ口を叩きながらも大人しくしていたので、名無しさんは秘かに息をつく。
取り敢えずこの場の対処としては間違っていなかったようだ。
身体を暖めようと入れたコーヒーは飲み損ねたが、こうしていると結構温かい。


あの石の刻む心音が、聴こえてきそうだ。
そして耳を塞ぐ為の腕はもう。


「私はまだ死なないよ。まだ」

「ふん、無駄に生きてるね、あんたも」

「そうだね…」

彼等が持っている物と、
名無しさんが欲しがっている物は確かに一致している。
加えて人間の命は短い。
それでも、手を出すのには少し早い。


艶やかな髪の感触が、酷く痛い。


もう暫く彼女は悠長な錬金術師で居たかった。
長くはないかもしれないが、名無しさんにはまだ時間があるのだから。





…それにしたって。
歳を取る事も無く、呆れる程生きられる癖に、この男も限りがある事に苛まれているんだろうか。

だとすれば、自分の夢など到底叶わないような気がして。
その日の名無しさんはいつもより余計に落胆したのだった。

この不満足な、空白のような時間も気に入っている、と言ってしまえばそれまで。
だけど、どうしても足りなくて、気づけばまた「ひたむきな研究をする自分」の姿勢に甘んじている。


もしも名無しさんの人生にOKのサインを出せる者がいるとしたら、

それは彼女だけだというのに。

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