SHORT(お題消化 全6)
□罪と罰
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七つの罪、
七つの悪徳。
彼は言った。
その一つが自分の名前だと。
“エンヴィー”
あの日知り得た彼の名前。
何故その響きはこんなにも鮮やかな毒を持ち、
こんなにも、甘やかなのか。
朝起きると、しんなりとした空気が部屋に篭っていた。
もしかしてとカーテンを開ければ、灰色の雲から無数の雨粒が降りて隣家の赤い屋根で踊っていた。
こんな風に雨が降るのを誰かが泣いている様に思う時は、決まって自分の心が何かに囚われていた。
名無しさんは深く溜め息を吐くと、のろのろと顔を洗いに行った。
流水の冷たさに気持ちが凛とする。
水分を吸ってしっとりとなるタオル。
次に鏡に映った、少女のあどけない顔のその下。
首筋に浮かぶ薄紅の跡。
…結局何だったのだろう。
『彼の所に行く』というのは。
エドの事を引き合いに出され、どうなっても仕方がない覚悟で返事をしたが、現れた彼は躊躇う様にして名無しさんを連れて行かなかった。
代わりに、
得体の知れない寂しさを残して。
名無しさんは鏡を見ながら、そっと花弁をなぞってみる。
彼の残したそれは、もう殆ど消えかけていた。
「……狡い」
名無しさんは呟いた。
心が重い。気づけば溜め息ばかり。
しかし憂いの吐息は何処か甘くて、恍惚とさえする。
恐らくもう、彼が自分に会いに来る事はない。
もう会えないのに植え付けられた寂しさだけが残ってしまった。
その気持ちが何かなんて分からない。でもふとした瞬間に浸食され、支配される。
彼は同情を望まないけれど、流れ込んでくる孤独感に泣きたくなる。
どうしてこんなに絆されているのだろうとも名無しさんは思う。
雨に涙を誘われはしない。
でも誰かが泣いてる気がしてやっぱり哀しくなる。
思い描く「誰か」は、
おいそれと泣いたりはしないけど。
時々堪らなくなるのだ。
今も、待ってくれている気がして。
「……会いたい」
この気持ちが何かなんて分からない。
ただ、逢いたいと名無しさんは思った。
気持ちの正体が掴めないからこそ、もう一度。
名無しさんは着替えて玄関へ赴くと、立て掛けてあった赤い傘を手に取って家を後にした。
もう一度だけ。
部屋を飛び出してそれが叶うなら、この雨を厭う事もない。
彼女が自覚すると同時に浮上してくる色々の事。
何処に行くでもなく歩いた秋の日々にも、無意識に彼を探していたのかもしれなかった。
正午を過ぎた頃。
川岸を歩いていた名無しさんは、空腹感に気づいて足を止めた。
そういえば朝食も取らずに出て来てしまっていた。
少し辺りを見回すと、彼女はすぐ向かいの喫茶店に入っていった。
朝からの天気のせいか、店の客足は疎らだった。
心地良い音楽がゆったりと流れ、落ち着いた雰囲気が安らぎのひとときを作る。
軽食を頼み、窓際の席でゆっくりとお茶を飲んでいると、やがて名無しさんの真横から強い光が差し込んできた。
一瞬にして白光に染まり、店内の明度が上がる。
俄かに晴れ間が広がり、濡れた道や草花、そして太陽が金や白金にきらきらと輝いた。
雲のベールを脱いだ空には、白翠と瑠璃を敷き詰めた様な透き通った青。
夏から秋に掛けてはよく晴れていたが、名無しさんは青い空を久々に見た気がした。
こんなにも空は大胆な色をしていたのかと楽しくなる。
ティーカップを傾けながら、彼女は独りでに笑みさえ零れそうだった。
可笑しくて堪らない。
だって会える筈なんてないのに。
傘を片手に何処へともなく歩いてどうする気だったのか。
今更、今度は何処に行こうかなんて遊び心も芽生える。
とは言ってもあの川の岸にはもう行ったし、彼女が他に行ってみようと思う場所は一つだ。
其処に向かうだけ。考える事は無かった。
支払いを済ませ、店を出ようとした時、名無しさんは思わず窓の外を下から覗き込んだ。
いつの間にかまた、空は灰色の雲に覆われていた。
なんて変な天気だろうとぼやくと、名無しさんは乾き切らない傘を開き、再び雨粒の中に身を投じていった。
向かった先は、かつての恋人とよく行った場所。
あの公園だ。