小咄

□壱
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「生命の起源は海に有り。」


それが、あの人の口癖だった。

開港当時の、西洋と東洋が混じりあった独特の雰囲気を醸し出す喫茶店。
ステンドグラスにオイルランプ。
店内のレコォドが奏でるクラッシックはプッチーニのオペラ、蝶々夫人。

その店内で、あの人は何時もの口癖を薄い唇で紡ぐ。


「生命の起源。地球上の生命は、おおよそ37億年前には存在していたという証拠がある。地球上の生命は全て単一の祖先から進化したとか、違うとか、考え方は十人十色。みんな違ってみんな良い。けれど私は生命の起源は海と主張し続けるよ。」


高学歴のあの人の話には、私は何一つ理解し得ない事だったけれど、あの人の声が私の耳から入り脳髄を浸透させる事が出来るから、あの人が話す事は好きだった。


「そう云えば。あの有名な映画の主演で、かの有名な役者の…ええと、何と云ったかな、まあ良い。あの役者が死んで今日が火葬と云っていたね。」


あの人は俗世の事には疎かった。


「それが、どうかしたんですか?」
「死という概念もまた人によって違うけれど、私は誕生する前に戻ると思っている。」
「…はぁ。」
「つまり、死…生命の誕生は【無色透明】と云う訳だ。」
「あの、良く理解出来ないのですが。」
「理解しなくて良いよ、私と君は違う個体であるのだから。」


私と君は違う個体ー…その言葉がどうしてか嫌いだった。
だって私は、あの人ヲ


「つまり、火葬とは【無色透明】な存在になる事が出来ない。」
「でも、魂が肉体から離れて自由になると云う事で、人が見る事が出来なくなる事は【無色透明】になるのでは?」
「例え肉体が焼かれても、結局、骨は残るじゃないか。骨は白い、いや、所々焦げていたりするから茶色だったり黒だったり…という訳で火葬と云う儀式は【無色透明】、死と云う物から程遠いものなんだ。」
「じゃあ、どうすれば良いのでしょう。」
「さあねぇ、出来れば私は溺死してそのまま溶けて水の中へと還りたいね。」
「水や、海にも色は付いています。」
「水は透明だよ。」


あの人は柔らかい微笑みを浮かべた後、その余計な肉など付いていない真っ白な細い指で目の前のクリィムソォダをそっと握る。
そして持ち上げ、床へと音を立てずに落下させた。

ガシャンー…

透明なグラスが細かく破片となり飛び散る。
氷が滑り、遠い席の足元へと行く。
グラスと云う狭い世界の中にいたクリィムソォダは鮮やかな緑色をしていたけれど、境界が無くなり自分のテリトリィを広げるその緑色だった液体は透明になっていた。
あの人の云う通りであった。


「ほぅら、ご覧。小さな世界では色のある様に見えても、広い世界に出てみると周りとの境界が曖昧になり同調して透明になる。私はね、早く【小さな世界】の境界を取り払って【広い世界】で透明になりたいんだ。」


そう云うあの人笑顔が、眩しくて、美しくて、憎らしくて、愛しくて。
私の汚らしい部分が首を擡げた。
これ以上は危険だ、早急に何とかしなければ。
私はその首を擡げた汚らしいモノを無理矢理抑えつけて、もう出ましょう。と云った。
伝票を持ち、レジへと行く。
この店には少し似合わないレジの電子部分を見ると、二千円の文字が打たれている。


「一万円になります。」


人形みたいな店員がそう云ったので私達はレジに千円札を置いて、店を後にした。


それからの私は、珍しく動き回った。
全てはあの人のため。
家財道具を売り払い、海の見えるコンクリィトが打ちっぱなしのマンションを買った。
それから、大きな水槽。
水槽と云うよりも、学校のプゥルに近かった。
家財道具を売り払ったお金が底をついたので、田舎の母が私の為に用意してくれていた貯金を全て投げ打って、そのプゥルに近くの海から絶え間なく水を引ける様にした。

全ての準備が終わった次の日、私はあの人を新しい部屋へと案内した。
その部屋を見ると、あの人は、素敵だね。と誉めてくれた。
それを見て私は、あの人にある事を告げる。
するとあの人は、嬉しいよ、有り難う。と私に初めてのキスをしてくれた。

早速あの人は服を脱ぎ捨て、一糸纏わぬ姿を私の前に堂々とさらけ出した。
たまらずその脱ぎ捨てられた服を拾い、惜しみなくあの人の残り香を嗅ぐ。
本人の前でそんな事をする私を、あの人は軽蔑するでもなく、幼子を見守る親の様な目をし、水槽に入り中央へと進んで行く。
そして足を床からあげ、大の字に水に浮かび漂う。


「嗚呼ー…君のお陰で私は透明になれる。」


その言葉を最期に、あの人は何も喋らなくなった。
私は、ただそれを見つめているだけ。
ただそれだけで幸せだった。

それから一週間経ち、あの人は死んだ。
否、【無色透明】となったのだ。
この行為での死亡にしては一週間という日数が早いのか遅いのかは解らない。
そうなっても、私は、ただそれを見つめているだけ。

どの位経ったのだろう。
あれからあのヒトは腐敗し、身体がドロドロと溶け出した。
それでも、私は、ただそれを見つめているだけ。
ぷかり、と浮かんだ骨格と最後まで残っていた腎臓を引き上げ、出来る限り細分化し、ミキサァにかけて粉末と液体にしたモノを水槽へと流し込んだ。
最初はどす黒い血の色の塊が漂っていたが、棒状のもので一、二回かき回すと、広い世界に広がる【無色透明】に侵食され、水槽の中には透明となったあのヒトと水だけの【無色透明】の世界が創造された。

ふと脳裏を過ぎるものがあった。
私もここで緩やかに【無色透明】となれるのなら、あのヒトと同じ、同化、一つの全く等しい個体になるのではないか。
嗚呼、何て素敵な考えだろう。

まず、シャワァを浴びて丹念に身体を洗う。
私とあのヒトと【無色透明】なもの以外を持ち込んではいけない。
そして服を脱ぎ捨て、右足を軽く水に沈める。
皮膚から、あのヒトが私のナカに入り込んでくる甘い錯覚に陥った。
続けて左足、両手首を水の冷たさに慣らし、ゆっくりと水槽の中央へと歩みを進める。 そして、両足を水槽の底から離し、浮力を使って大の字に水面に漂う。
今、私はあのヒトが見ていたものを見ているのか。
そう考えると自然と笑いが込み上げる。

早く、はやく、はやク、はヤク、ハヤク

ー アノ ヒト ト ヒトツ ノ コタイ ニ ー

三半規管に水が入り込み、バランス感覚が狂い始める。
大丈夫、慌てるな。

モウ スコシ デ アノ ヒト ト

溶け出した身体は水槽の【無色透明】に侵食され排水溝を通り処理が施され大きな海いつか誰かが愛した生命の起源である母なる海へと流れ込みとうとう回帰出来たのでした。

ワタシとあのヒトには境界がなくなり愛すべき海という存在へとなったのです。

(私≠あの人→ワタシ=あのヒト∵無色透明)



20120820


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