薄桜鬼の頂き物
□明日元気になぁれ
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中々寝付けぬ夜。
私はそっと部屋を抜け出し、縁側に足を投げ出した。
見上げた空は月も星も隠す程の重い雲を抱えている。
それは、私の心を写してるかの様に思えた。
あの厚い雲を吹き飛ばせば、自分の心も晴れるかもしれない。
それならば吹き飛ばしてしまおうかと、冷たい空気を思いっきり吸い込むと、胸の辺りがチクリと痛んだ。
ケホッ…
痛みが、咳となって口から漏れた。
その咳の音に、思わず目を見張る。
咳の音を聞く機会は、数えられぬ程あった。
蘭方医の父様を訪ねてくる人々の中に、咳を出す人は沢山居たから。
でも、私が今日まで持ち合わせている記憶では、自分が同じような咳を出した事はなくて。
今回も、ただ冷たい空気に身体がびっくりしているだけだろう。
もう一度冷たい空気を身体に入れることに躊躇した私は、小さく息を吸って小さく吐いた。
その息は、厚い雲を動かす事もできない弱い風。
まるで自分独りでは何もできないのだと言われている様で、今度は大きく息を吐いた。
「なんだ、まえゆちゃん。風邪か?」
「…あ、永倉さん。おかえりなさい」
夜霧を含んだ湿った空気を飛ばすかの様な声にびくりと身を震わせるも、目に入る見慣れた姿にしてホッと息を吐いた。
数人の隊士達と姿を現した永倉さん。
今日は肩を並べている事の多い原田さんの姿が珍しく見えない。
夜の巡察…からの帰還にしては遅いし、朝の巡察…からの帰還にしては早過ぎる。
ということは……
その次の言葉を連想するのを遮るかのように、でも自然に会話が続く。
「しっかし、この時間にこんな場所に居たら、風邪も引くだろうよ?」
少し呆れたような声を漏らす永倉さんが後ろの隊士に目配せすると、隊士達が順に建物内へと姿を消していく。
その背中を見送った後、永倉さんへ視線と返事を返した。
「大丈夫です、風邪じゃないと思います。(だって、今まで引いた事ないんですよ?)」
口に出そうか悩んだ結果、言葉を詰まらせる。
それが永倉さんの気に触ったのかどうかは分からないけれど、眉を潜めた永倉さんが私の手をぐっと掴んで歩き出した。
「な、永倉さん…!?」
「咳してるんだから、風邪だ、風邪。」
「えぇ!?」
歩幅の大きい永倉さんについて歩く事は、私にとって駆け足同然。
次第に早くなる呼吸の合間を縫って、大丈夫です、風邪じゃないです、と何度か話しかけるも、気が付けば自室の布団の中。
いつもと変わらない自室と薄い布団。
でも、枕元には、永倉さん。
「ん?顔が赤いな…?」
「だから、私は風邪じゃ…」
最後まで言い終えないうちに、額にコツリと何かが当たる。
目の前は、すべての視界が遮られたかように、真っ暗。
でも、青い瞳がいつもよりも大きく見える。
今、私の目は、その青眼しか映していないのだろう。
そして、額に何が当たっているのか理解できた瞬間。
私の頬に熱が集まるのを見計らったかのように、青い瞳が遠ざかった。
「な、永倉さんっ!?」
「やっぱり熱があるじゃねえか…って言いたい所だが、コレしてたらよくわからねえな」
私は離れた青い目を追うように飛び起きた。
今、私の目は、はっきりと永倉さんの姿を捉えている。
その永倉さんは何事もなかったかのように、額を被う緑の布を擦って笑っている。
「わ、私、熱はないですっ!」
「そんな赤い顔して何言ってんだ?熱があるから赤いんだろ?」
「こ、これは…!」
火照る頬に思わず手を寄せ、上ずった声を出してしまった。
手に伝わる熱は、駆け足の所為か、私の視界を遮った青眼の所為か。
どちらにしても、
(顔が赤いのは熱のせいじゃなくて、永倉さんのせいなのに…)
当の永倉さんは、腕を組んで笑ったまま。
本当に私が熱があるのだと思っているのだろう。
そして意識しているのは明らかに私だけという事実に、私は言葉を詰まらせる。
「日が昇ったら薬を貰ってきてやるから、今日は1日大人しくしてるんだな」
「…お薬、いりません」
「なら、明日の巡察。まえゆちゃんとは行けねえなぁ?」
「…っ!」
きっと、その言葉には深い意味なんてないのだろう。
原田さんが言ってた。
永倉さんの政治講談を私が真剣に聞くものだから、楽しくてしょうがないのだろうと。
もちろん、私だってそういう話にもちゃんと興味ある。
でも永倉さんとの巡察は、本当に楽しくて待ち遠しかった。
…政治講談を抜いたとしても、待ち遠しかった。
どちらにせよ、明日の巡察に同行するには、きっと永倉さんの言う事を聞いておかなければならないのだろう。
今までの勢いを失った私に、永倉さんは満足げな笑みを浮かべた。
「ほら、しっかり寝るんだぞ!」
「わっ」
「起きたらちゃんと薬飲めよ?」
グッと大きな手に押され、バサッと布団を乱暴に駆けられる。
1回、2回と、私の頭に触れる大きな手と、暖かい光を帯びた青眼。
きっと、子供をあやす感覚なんだろう。
そう考えると、冷たい空気に晒された様な痛みが胸の奥を刺激する。
それでも伝わる暖かさは痛みを和らげ、あわよくばそのまま身を預けてしまいたくなる。
そんな衝動から逃れるように視線を動かせば、いつの間にか部屋に差し込む月明かり。
あの厚い雲は、きっと大きくて温かい風が吹き飛ばしてくれたんだろう。
そして今は、月も星も綺麗な光を放っているのだろう。
「…もう、お薬は貰いました」
「なんだ、やっぱり風邪だったんじゃねえか」
溜め息交じりの柔らかい声がゆっくりと響く。
永倉さんが風邪というなら、きっと私は風邪を引いていたんだ。
そして、その風邪は永倉さんが治してくれた。
大きな手と、暖かい眼差しと、柔らかい声で。
きっと、これからもそうなんだと思う。
そうであって欲しい。
私の特効薬は、彼の優しさ。
⇒お礼文