◆コラボ◆

□地獄の讃美歌
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地獄の最下層、コキュートス。魂すら凍てつかせる冷気に満ちた無音の世界。動くモノは何も無く、悪魔たちの凍りついた氷壁だけがそびえ立つ。
その静寂を穏やかなハミングが破った。一人の少年が悠然と、コキュートスの凍った大地をスニーカーで踏みしめる。彼は日本の中学生が着る半袖の学生服を身に纏っていた。コキュートスの冷気でも、彼を凍らせることはできない。氷の下の悪魔たちが悲痛の表情で彼を見上げている。
少年はベートーヴェンの交響曲第9番を口ずさみながら、巨大な氷壁の前で立ち止まった。
「歌はいいね。歌は心を潤してくれる。リリンの生み出した文化の極みだよ」
見開かれた赤い瞳が穏やかに語りかける。
「君もそう感じないかい?ルシフェル。……いや。今はサタンと呼ぶべきだったかな?」
しばしの沈黙の後、頭の中に透き通るような声色が響いた。
「……その名で呼ばれるのは、何億年ぶりだろう…」
ふいに目の前の氷壁に鋭い亀裂がはしった。氷に映った自分の顔が歪む。砕けた破片が次々と落下したが、少年には一切当たっていない。まるで氷が自ら意思を持って、彼を避けているようだった。
やがて、氷壁の中から12枚の翼を持った美しい天使が姿を現した。その者の名は大魔神サタン。またの名を堕天使ルシフェル。かつては神に仕える身であったが、神に反逆したことで天国を追放され、やがては悪魔、すなわちデーモンたちの神となった。その肉体は恐ろしいほど白くまばゆい輝きを放ち、男女両方の性器を持ち合わせている。
ゆっくりと目を開いたサタンを見上げ、少年は感嘆のため息をついた。
「昔と変わらない…。相変わらず君はきれいだね、サタン」
「その口ぶり…。お前も相変わらずのようだな、タブリス」
タブリスと呼ばれた少年は一瞬目をまるくしたが、また穏やかな微笑みを返した。
「カヲルでいいよ、サタン」
「カヲル?……人間の名前か?」
「そう。今日は人間、渚カヲルとして君に会いに来たんだ」
「…………」
カヲルの微笑みからは何も読み取れない。彼の前では嘘も、真実も、全てが謎になってしまう。
「僕は君と話がしたい。こっちへ下りてきてくれないかい?」
おもむろに手を差し延べるカヲル。しかし、サタンは両腕を組んで瞳を閉じた。
「話すことなど何も無い」
手短に拒絶の言葉を返すと、再びサタンの体を分厚い氷が覆い始めた。
「あ……待ってよ、サタン」
カヲルの呼びかけもむなしく、サタンの美しい翼が氷で覆われていく。
すると、カヲルは差し延べていた手をズボンのポケットに入れて、ぽつりと呟いた。
「僕も……リリンを……人を好きになったんだ」
その一言でサタンの目が見開かれた。同時に、体を覆っていた氷が動きを止める。
サタンは上半身だけを外に出して問いかけた。
「人を……好きに……?」
カヲルが深く頷く。
「そう。かつて君が人間となって生活し、一人の人間を愛したように――」
それは遠い追憶。
「僕も短い間だったけど、人の体を得て、人と生活し、一人の人を好きになった」
カヲルは心の中にある思い出の宝箱を開けて、中から大切な宝石をひとつひとつ取り出していた。
「人を好きになるということが、こんなにも辛く、愛おしいモノだったなんて……知らなかった――」
それは信頼と裏切り。愛情と憎悪。出会いと別れ。全てが不確かでアンバランスなモノ。
「そうだったな……」
サタンも自らの記憶を反芻した。
「わたしもかつて、人間として生きた。人間の心を知り、弱さを知り、そして彼を愛した」
奈落の底に堕ちた今でも、決して忘れることのできない愛しい人。今はどこを彷徨い歩いているのか……。
「サタン。君にとって人を愛するとは、どういうことなんだい?」
カヲルが純粋な眼差しを向けてくる。改めて問い詰められると、これほど難しい問題は他に無い。おそらく、自分の親たちも言葉を詰まらせるだろう。
サタンは瞳を閉じて、今一度愛しい人の姿を思い浮かべた。青い空の下、彼は屈託のない笑顔で名前を呼んでくる。その声が耳に心地良い…。語り合い、野を駆け、共に過ごす時間が何よりも幸福だった。この時が永遠であればいいのに、と――何度願ったことか。
ゆっくりと目を開き、サタンは今の気持ちをそのまま口にした。
「うまく言葉で表せないが……少なくとも、共に生きたいと願ったことは確かだ」
すると、サタンは遠くを見るような眼で淡々と語り始めた。
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