心空もよう

□はじまり
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入学式早々、その天気は荒れていた。





「うわぁ……台風、なのかな」



絶望の声で呟いたそれは、勢い良く窓から吹き込んだ風にかき消されてしまう。

それ程今日の天気は酷く、一瞬開けただけの窓の隙間から雨が斜めに入り、ベットの上を濡らした。


慌てて窓を閉めて、灰色……よりももっと暗い鈍色の空を見上げる。



まさに曇天。


土砂降りの雨の中を、道行く学生は傘を差しながら早足に歩いている。

こうして二階の自室から見下ろしているだけでも、外の凄まじさが伝わってくるようだ。

真新しい制服、新品の靴下にローファー、そのどれもが泥と水で大変な事になっている。



「こころー!そろそろ行かないと遅刻するわよー!」



一階から呼ばれ、部屋から出て階段を降りていく。


「お母さん、入学式無いんじゃないかな。だ、だってこんなにもみくちゃな外に行ったら、飛ばされちゃ…」

「さっき学校のホームページ確認したけど、通常よ。別に台風じゃなくて春の嵐なんだから、終わる頃には止んでるでしょ」


終わる頃に止んでも意味ないです。

ケラケラ笑って答えるお母さんに溜息をついて、リビングへの扉を開ける。

時計を見ればもう時間も無いので、焦りながらコーヒーとパンを流し込んだ。


「いってきます!」

「気を付けなさいね。貴方の運勢は一位だったし大丈夫だと思うけど…ラッキーアイテムはヘアピン、ラッキーカラーは緑色よー!」


駆け出す私の後ろから、お母さんの声がかかる。

確か、毎朝『おは朝』の占いを見ているお母さん………



よく当たるらしい。

はた、と足を止める。


いつもならなんら気にしていない占いけれど、今日はちょっと後ろ髪を引かれてしまった。

入学式だし、嵐だし、出来ることならプラス要素を身につけておきたい。



「ええと、ヘアピン……」


何処かに手頃なヘアピンはないかと探してみると、玄関のサイドボードに丁度置いてあった。

手に取りそのテントウムシのヘアピンを髪につける。春らしいし、ラッキーアイテムもクリアできた。

風で飛ばされないようにしないと……




「うわ」


玄関の扉を開けて傘を差そうとした瞬間、強風が吹いた。

これから先の道のりが心配になる。


前から来ると思った雨風は、急に方向を変えて横殴りになった。

かと言って横を傘でガードすれば、今度は背中を押すような暴風にスカートが巻上がる。


「うわぁぁ!」


割と大きな声をあげてしまっても、アスファルトに叩きつける雨の音に消されてしまった。

これではきっと、助けを呼んでも誰も来てくれないだろう。

ドジを踏んだら、終わる。


なるべく細心の注意を払い、尚且つ急ぎ足で入学式に向かった。

傘の骨が既にみしみしいっている。

折れた時の予備に一応折りたたみ傘は鞄に入れてきたけれど、使う機会が早く巡ってきそうだった。



「…………ん?」


胸に期待を抱いて挑むはずの四月の入学式の日に出鼻を挫かれていると、目の前に何やら動くものがあった。

雨風に霞む視界の先に、黒っぽい塊がある。




「………もう、少し…………」




近付いて見てみると、どうやらそれはうずくまる男子高生だった。

私が今から行こうとしている高校の男子高生と同じ学ランを着ている。


しかし彼の学ランは、雨に濡れて所々斑模様のようになっていた。

傘を差してこなかったのだろうかと驚いて更に近付くと、その傍らには黒の傘が置いてある。

時々風に煽られて飛ばされそうになるそれをハラハラしながら見ていると、案の定、その傘は宙に飛んでいった。


男子高生はうずくまって何やら作業に没頭しているせいか、隣で舞い上がっている自分の傘に目もくれない。


「待って、ちょっと、待って!」


風に待ってなんて言っても聞いてくれないのは知っていたが、手を伸ばした瞬間に風が強くなるのはどういうことだ。

高校初日から天気に悪戯されているような気がしてショックを受けるが、しかし傘はお構いなしに飛行を続ける。

おまけに男子高生も作業を続ける。いや気付いて。あれだけ大声を上げたのにまだやってるのか。そんな馬鹿な。


軽く信じられないが、ずぶ濡れに近くなりながらもまだその体はうずくまったままだ。

車にうっかり彼が轢かれないように祈りながら、地面を擦りつつまだ遠くに行こうとする傘をなんとか掴む。


「…………あ」



しかし、手に持った瞬間にその傘の骨は折れた。

どうやらこの嵐のせいで、耐久力が削り取られたのだろう。

役目を全うした傘が少し格好良く見えた。


私もつられて達成感に満足していたせいで、いつしか彼と同じくらいにずぶ濡れになってしまっていたけれど。

靴下とローファーは水を吸ったスポンジのように嫌な感触に変わり、新品から一気にくたびれた定年退職の出で立ちになっていた。

おそらく私の現在の顔も、この足元と同じくらいにくたびれているに違いない。


早く学校に着いて、せめて髪だけでも直したかった。

高校デビューがこんな格好だなんて、もはや斬新な妖怪じゃないか。

なるべく男子高生にこのボロボロの顔を見られないように俯いて歩み寄り、その手元を覗き込んでみる。


「……………?」


どうやら、男子高生はフェンスの隙間に手を差し伸ばしているらしかった。

雨すら忘れているのか、我慢しているのか、その横顔は真剣そのものだ。

しかしフェンスと地面の間に差し込むには、男子高生の手首は太い。


その指が掴みかけているものは何なのだろう。


「…………」




あれ。

あー、疲れて見間違いしたのか。

なるほどなるほど、私の目が悪い。よし、ここは目頭を揉みほぐして、ついでに落ち着こう。



赤い消しゴムしか見えなかった。

待て待て待て待て。
いやいやいやいや。


何度確認しても、彼が目指しているのは赤い消しゴムだった。

あ、ほら今なんてもろに指先が掠っちゃったよ。

絶対これが、この消しゴムがお目当ての品だよ。どうする。もう朝から全身が脱力感に包まれてしまった。入学式どころではない。

散々苦労して追い掛けたのは、あの消しゴムの為だったのか……


いや、見るからに新品だけれども。

体張ってまで取りにかかるものでも、ないんじゃないでしょうか?



………とりあえず、傘は返さないと



「あの、すみません」

「…………………」

「……あの、すみませんっ」

「…………………?」



雨音に負けないよう声を張り上げると、ようやく彼は顔をこちらに向けた。



心臓が、止まる。



男子、でいいのだろうか。

その長い睫毛からは雫が滴り、絶えず頬に流れ落ちている。

鋭い両目と少し戸惑うように半開きになった口も、その顔の全てが、美人だった。緑の髪は雨で濡れているが、そのせいで妙に艷めいている。



男の人に美人だなんて感想を抱くのは失礼だと思い返し、慌てて浮かんだ考えを振り払う。



「か、傘飛んでいったので捕まえました。ここに、置いておきますね……」

「……すまない。気がつかなかったのだよ」




―――――…のだよ?

男子高生からどこぞの博士か教授みたいな言葉遣いが飛び出してきた。

いや、これも雨の仕業だろう。

どこの高校生がそんな口調で会話をするというのだ。消しゴムは幻覚では無かったにしろ、流石にこれは幻聴であろう。



それよりも、未だ彼が手にできない消しゴムが気になった。

フェンスの向こう側の水溜まりの中で鎮座中の赤いそれは、もう水を吸っているのか色も変色し始めている。


しかし、彼は諦める素振りも見せない。

私が傘を置いたのを見届けた後に、また消しゴム回収作業に取り掛かった。




「よ…………良ければ、なんですけど」



そんなに大切な消しゴムなら、見捨てるわけにもいかなかった。

きっと、私には想像もできない思い入れがあるに違いない。

なんだか必死にそれを取ろうとする彼の姿に、段々心打たれてきた。



話し掛けてみると、今度は一発で彼が振り返ってくれた。

制服の袖を巻くりながら、おずおずと問い掛ける。



「私が拾いましょうか…?あの、幾分手首も細いですし、それくらいの隙間だったら大丈夫だと思います……」


もしかしたらありがた迷惑かもしれないという不安から、声が尻すぼみになっていく。

よくバスなどでお年寄りに席を譲ろうとするけれど、年寄り扱いするなと怒られるのではないかとか色々考えているうちに、もうお年寄りはバスを降りているタイプの人間である。

今回は知らない相手に、しかもこんな前例のない事で話し掛けている。

緊張しないわけなかった。

彼はしばらく悩むように黙っていたから、てっきり断られるかと思い、巻くっていた袖を静かに戻す。


そのまま謝って立ち去ろうと腰を上げようとすると、彼は顔を上げた。

綺麗な目と、目が合ってしまう。




「………頼んで、いいだろうか?」



雨の間をくぐり抜けて耳に届いた声に、一瞬何が起こったか分からないまま固まり、理解してから大きく頷いた。

ほっとしてからまた袖を巻くり上げ直し、スカートも巻くる。入学式用に長くしてきたけれど、この濡れたアスファルトに膝をつくなら仕方ない。

裾を上げて膝をつけ、腕をフェンスの下から通した。

難なく消しゴムをつまみ、こっちに引き戻してくる。


振り向いて、待っていた彼に手渡した。



「取れましたっ。どうぞ」

「すまないのだよ。おかげでかなり助かった……今日のラッキーアイテムを無くしては、人事を尽くせないからな」

「ラッキー……アイテム?」



どこかで聞いたような単語だ。

ついさっき、朝に、お母さんから。



…………え?

例えば、昔の友人が高校祝いにくれたとか。病気の母が夜なべして練ってくれたとか、そんな理由がその消しゴムに込められているんではないの?

ラッキーアイテムに、そこまで命掛けてたような気迫が生まれていたの?



「…………」


絶句だ。
言葉が出ない。カルチャーショック、というやつだろうか。

世の中にこんな人がいるなんて。



「しかし随分と変色してしまったな…これでは赤色と呼べるか怪しいところだ」

「………ラッキーアイテム…」


呆然と呟くと、彼は何でもないように傘を差した。

私もまだ混乱の中にいるが、とりあえず傘を差す。全身が濡れていて傘の意味が無いようにも思えたけど、下着まで濡れてしまうのは勘弁だ。

前髪が雨で額に張り付いている。せっせと指で直していると、ヘアピンがずり落ちてきた。



テントウムシもびっくりだろうね、こんなのとになって……

哀れみの気持ちで、そのツルツルした表面を指でなぞった。




「……付き合わせて悪かったのだよ」

「い、いえっ。消しゴムが戻って良かったです…。えっと、ラッキーアイテム……ですし、ね」

「もう効力はないかもしれないがな…買い直すしかないかもしれないのだよ」

「すみませんそれ電柱です」

「ああ、こっちか」

「それポストです」

「………?何処にいるのだよ」



目の前にいるんですけど。

え?
目が悪いのレベルを超えている。

私そんなにポスト系の顔をしているのかな。赤くはないと思うけど…むしろ冷えて青ざめている。



あとその口調は聞き間違いじゃなかったんですね。

実に個性がある話し方。さすが偏差値が高いと評判の秀徳高校…学生も皆こんな感じなのかな。

ああ駄目だ。友達できる気がしない。

必死に勉強して入学したのはいいけれど、やっぱり身の丈に合わないことをした。少し遠いけど誠凛とかに入っておけばよかった。

中学校の友達も皆いないし…入学式で挽回しようとしたらこの有様だし…




…私は一位なんじゃないのでしょうかおは朝さん。ラッキーアイテムは…一体…



「占い当たるといいですね…では…」


疲労感が襲ってきて、ふらつきながらその場を離れた。

今後しばらく占いの類を信じられないな、私。おは朝の占いを信じているお母さんや彼には申し訳ないけれど、この状況を見てまさか一位だとは思えないだろう。

ラッキーアイテムもお役御免となった気がして、髪から外しポケットに仕舞った。


「おは朝の占いはよく当たるのだよ。今日のラッキーアイテムは消しゴム。ラッキーカラーは赤だ。二位だからといって油断はできない…運勢を修正するのに余念はないのだよ」

「運勢を、修正……?」


秀徳ジョークではないらしい。

大真面目な顔で電柱に話し掛けている彼をやや離れて眺めた。

一体何の世間話なのか分からないけれど、彼は占いを信じ込んでいることだけは理解できた……

ラッキーカラーか…私は緑色だったはず。
そしてこの人の髪は緑色。

おは朝の占いは全力で外れている。



「……まあラッキーカラーは、生憎なくなってしまったがな」


まるで財布を無くした人のような深刻さで、彼は溜息をついた。

大切そうに拾った消しゴムを学ランのポケットに入れる彼に、今私の制服にあるヘアピンを思い出す。

百円くらいで買っただいぶ古いヘアピンは、確かテントウムシがついていた。

真っ赤な、テントウムシ。



「………もしよかったら」

「?」


取り出したそれを、彼の前に差し出す。

ようやくポストから私に視線を移してくれた彼に見えるように、ヘアピンを近付けた。


「これ、一応赤いんですけ」

「貰っていいのか?」

「あ、はい」


食いつきが早い。
端正な顔は少し意外そうになり、次いでその目が見開かれた…ように見えた。


「………感謝するのだよ」


それは、まあ、良かったのだよ。

……うーん。私も秀徳色に染まれるかどうか悩ましいところだ

彼の傘が全力で逃げた理由が分かった気がする。彼は不思議を通り越して、変人の部分に入っていた。


人は見かけによらない。
身を持ってそれを学習した。そしてこの世には色んな人がいることも学べた。



……まあこんな大人びた人が新入生なわけないし、同じ学校だからといってもう会うこともないだろう。多分三年生だ。そうに違いない






さようなら占いの人。

春の嵐に現れた、消しゴムを夜な夜な探す秀徳学生の幽霊じゃないことを願っています。



「それでは、また」

「ああ。そうだな」



だからそれ私じゃなくて案山子なんですけど。

……あ、今やっと彼が眼鏡を出した!


おおお遅いっ!

そう突っ込んでやりたかったけれど、もう彼との距離は開いていたし、入学式に遅刻確定しそうだったこともあり、敬礼を一つして走る。


風も雨も本気を出したように強くなり、差している傘ごと何度も吹っ飛びそうになりながら。















(春の嵐は波乱を呼んで)

(出会ってしまった)

(春一番)
 

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