月と太陽

□ベルからの手紙
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 ムラ一つなく上出来に染まった青絹のような、軽やかに明るい空の下に、藍のサテンを翻してたゆとう大海原が広がっている。その周辺を年中無休の驟雨嵐ストームに囲まれた分だけ、それは麗らかな日和に包まれた長閑な海域。素晴らしいのは海上の気候のみならず、海中の実りもまた格別で。唯一の大陸レッドラインや簡単には制覇の敵わぬグランドラインのせいで、南北と東西とに四分されている世界中の大海原。そのそれぞれの海域にしか生息しない筈な魚介類の、その全てが一堂に会して生息する夢のような海域。それが此処"オールブルー"だ。長い間、海のコックたちの間で名前だけを囁かれつつも、実際に存在するなんて有り得ないと、ただの伝説、作り話だと一笑に伏されて来たその魅惑の海域を発見し、それのみならず、そこへ立派な海上レストランをおっ立てた男がいる。

 「オーナーも何とか
  生気が戻って来たようだね。」

 「ああ。
  いくら何でも
  もう一月にもなるんだからな。」

 「しゃっきりしてもらわねぇと、
  示しがつかねぇぜ。」

 コックたちが苦笑混じりに見やった先では、金髪碧眼、長身痩躯、モデルか俳優ばりの美丈夫が、ちょいと不機嫌そうなお顔にて"たたたたたたた…"とそれは鮮やかな包丁捌きにて、野菜の山をシャキシャキのサラダへと変身させているところ。
白い指先はペティナイフから大きな大きな牛刀までもを自在に操り、細っこい腕はだがだが重い筈の北京鍋やずん胴鍋をやはり自在に振り回し。意外性と鮮烈さで人々の関心を惹きつける前菜に始まり、絶妙な味わいから不思議と手が止まらないスープやパスタ。時に奇抜な組み合わせにて息を呑ませる、メインディッシュへのプレリュードのサラダ&副菜。そしてそして、繊細にして大胆な味わいと美しき装飾をなされた空前絶後の仕立てへ誰もが蕩ける主菜が弾けて、その余韻を含んだままに客人たちを酔わせる魅惑のデザートまで。
彼の作るフルコースを食べるためなら魔海と名高い"偉大なる航路グランドライン"も何するものぞと、勇敢なんだか奇矯なんだか、よく分からない階層の人々を乗せた船団がこぞって船出するようになった、そんな風潮を招いた奇跡のシェフ。
それが…やはり不機嫌そうな頬の堅い線を、顎先まで伸ばした髪の陰に覗かせて、少しばかりうつむいたままフライパンを振るっている、この海上レストラン『バラティエU』のオーナーシェフこと、ムシュ・サンジである。

 「大体だ。
  元はグランドラインを牛耳った
  大海賊の一員だったってお人だぜ?」

 「そうそう。
  どんな恐持てのする
  荒くれ共でも敵わない、
  海賊王の仲間だったって
  お人なんだからさ、
  いつまでも
  腑抜けなまんまでいちゃあ
  おかしいって。」

 そう。この海上レストランが、ただでさえ航行の難しい海域のそのまた奥の院、所謂"隠れ里"のような見つかりにくい場所にあったにもかかわらず、あっと言う間に評判になったのは。前人未踏、完全制覇出来たのは後にも先にもゴール=D=ロジャーたった一人だけと言われていた"グランドライン"が、奇跡の冒険を成し遂げた"新しい海賊王"の辿った軌跡を追うことによってあちこちから解明され、他の人々にも通過するのが…まま多少は容易に可能となったせい。
そして、そんな海賊王の頼もしき仲間だったという若きオーナー氏は、この海域にて皆と袂を分かつこととなった。
育ての親譲りの鞭のように撓う強靭な脚から繰り出される蹴り技が、海賊共に対するには十分なほど"必殺"の武器であったため、戦闘力においても重々頼りになった彼は、仲間の一人、航海士だった美貌の才女と結婚。そのまま海賊船から降りると、必死になってレストランの宣伝を打った。これからの生活のことしか考えていなかったからでは決してなく…そこからこそりと離れた"一行"への追跡の目を逸らすため。
それらが功を奏したか、オールブルーの海上レストランは、食材の豊かさと天才シェフの腕の良さとで瞬く間に世界一の称号を得てしまい、かつてはその存在を夢のだの幻のだのと呼ばれていたこの海域に成り代わり、彼自身が"奇跡の名シェフ"などと呼ばれてもいるという。

 「でもねぇ。
  オーナーがベルちゃんを
  どれほど大事にしていたかは、
  あたしらだけじゃあない、
  お客様の中にだって
  知らない者なんて
  いないくらいだったしねぇ。」

 そう。そんなシェフ殿には、美人の奥方に負けず劣らず、目の中に入れたって痛くはないぞ、えっへんと胸を張っちゃうほど溺愛している一人娘がいる。
ベルという名は妻がつけた、自分の水色の瞳と奥様のみかん色の髪を譲り受け、二人双方の嫋たおやかな美貌を受け継いだ…と父は固く信じているそれはそれは愛らしい女の子。
気性は母上に似ていて、そりゃあもうお転婆で才気煥発な、いかにも今時の女の子。年の頃も十五となって、少しずつ少しずつ女性らしい顔立ちや体つきになって来て、ああこれは先が楽しみだが、父親が父親だからね、社交会へのデビューも遅かろう。絶対に手元から離すまいよなんて、微笑ましげに噂されていた…そのお嬢ちゃんが。

 『それじゃあ、パパ、ママ、
  行って来ますっ!』

 朗らかに手を振って小さなキャラベルの船上の人となり、生まれ育ったこのレストランを旅立って行ったのが、今から丁度一カ月前の話。
彼女自身と大差無いほどの年頃の、まだまだ子供な少年たちが、たった二人で船を操っての旅の途中に、この奥の院まで訪ねて来たのだが、そんな彼らの冒険の旅にすっかり魅せられたじゃじゃ馬さん。絶対について行くと言って聞かず。
自分たちが"現役"だったのとは、背景も違えば条件も違う。環境的にも技術的にも、そして…いまだに海賊たちが闊歩しているという"付帯状況的"にも、危険が一杯な海の旅。何より、最愛の娘をどうして逢ったばかりのお子様二人に任せられようかと、父上、そりゃあ反対したのだが。一体どんな手を使ったやら、お嬢ちゃんは両親からのOKを取りつけ、今日と同じくらい気持ちのいい空の下、晴れやかに旅立って行ったのだ。
それからのずっと、どこか魂が抜けたような様相にてめっきり惚けていたオーナー様だったのだが、いつまでもそんなじゃあ、ベルが凱旋して来た時には『バラティエU』の方が沈んでいましたなんてことに成りかねないわよと奥方が発破をかけて、それで何とか立ち直ってくれたという訳なのだが。

 「…あら。」

 このレストラン船にはコックたち男衆だけでなく、美しき奥方があちこちから集めた選りすぐりの女性スタッフたちもいる。
広報や経営関係のマネージメント管理を受け持つ精鋭揃いのセクレタリー軍団。こちらは完全に別動班で、寝起きから仕事に至るまで、最も近い島の港町に事務所を構えての営業なのだが、そこからまとめて届けられた郵便物を眺めていたマダム・ナミは、そんな中に随分と汚れて煤けた封筒が1通、紛れ込んでいるのに気がついた。
上流階級の客しか相手にしない店ではないが、予約なんてものをわざわざして来る客層ともなると、勿体振ったセレブな方々。華やかで凝った封筒が多い中に、地味で煤けたその1通は相当目立ったのであるが、妙な代物はそれこそ事務所での選別にあって弾かれている筈。

 "誰からかしら。"

 差出人は裏になっているらしいなと封筒をくるりと返したナミさんは、だがだが、

「………っ!」

 それは勢いよく席を立つと、他の書類は放っぽり出して、そうは見えないが…大概の猛者を一撃で静めることも可能な白い拳にて(笑)、事務室のドアを叩き開いた。

「サンジくんっ! 
 サンジくんっ、早く来てっ!」

 呼ばわりながら自分も廊下を駆け出して、つややかな大理石が敷かれたホールへと出たところで、

「どうしましたっ、ナミさん。」

 向こうは厨房から飛び出して来たらしい夫とそこで鉢合わせた。一体何事があったのかと、そりゃあもう慌てた様子であり、眸を大きく見張った驚愕の表情にあっては…ナミの方が"何かあったのか"と訊きたくなったほど。

「ナミさん?」
「あ、ああ。ごめんなさい。」

 ちょいと奇妙な沈黙の後、気を取り直したマダム・ナミは、さっき自分を飛び上がらせた封筒を愛する夫の目の前へとかざして見せる。

「これよ、これ。」

 裏書をと鼻先に突きつけたナミであり、

「手紙…?」

 あまりに近づき過ぎて、ただ白っぽい壁にしか見えない封筒。そっと奥方の手首を掴んで、何とか…書かれた字が読める距離へと離してから、あらためて読んでみたサンジは、だが、

  「…こ、これはっ!」

 奥方の驚きぶりなんて甘い甘い。こっちは…水平線の彼方から途轍もないビッグ・ウェーブがイルカを何頭も乗っけて沸き立ちそうなくらいの大感動に身を震わせながら、だが…言葉が出なくて。封筒とナミの顔とを、何か叫び出したいような顔付きにて、交互に交互に見やるばかり。気持ちは分かると、奥方の方でも"うんうん"と頷き返してやって、

「とにかく事務所へ行きましょう。
 いいえ、
 テラスデッキの方がいいかしら。
 ハーブティーでも飲みながら、
 二人で読みましょうね。」

 1ヶ月振りに届いた愛する娘からの手紙をと、弾む心持ちにて微笑って見せた奥方だったのだった。





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