My Tratures2

□とある財閥令嬢の憂鬱
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高級住宅街の更に一等地に、屋敷はある。主人は財閥クラスの大企業を束ねる人物であり、普段は忙しくあちこちを飛び回っている。そのため、年頃の一人娘であるつぐみには三人もの若い執事がついているのだ。

「失礼いたします」

つぐみの後を追って、井宿が部屋へ入る。

そして相変わらず、彼女は何も話さない。

「お嬢様、何処か具合いでもお悪いので?」

「いや」

「でしたら、どうしてずっと暗い顔をなさっているのだ……?」

恐る恐る尋ねると、鞄を放り投げようとした手がぴたりと止まる。それからややあって、振り向かずにつぐみは呟いた。

「…………から」

「だ? 申し訳ありませんが、もう一度……」

「明日から、送りも迎えも要らないから。私は一人で学校へ行く」

「そっ……それはいけませんのだ、何故いきなりそのような……!」

「要らないと言ったら要らない!」

突然語気を強めたつぐみに、井宿はぐっと息を詰まらせる。ここまであからさまに苛立っているのは、なかなか珍しいのだ。

「しばらく放っておいてくれ」

「……はい」

帰ってから一度もまともに顔を見れないまま、井宿は退室する事となった。何か気に障るような事をしてしまっただろうか?あれこれ考えを巡らせてみたものの、今朝は普通だったし──そのような心当りはない。

学校で何かが起きたのかもしれないと気になって仕方ないが、言いたくないのを無理に聞き出すのはどうかとも思う。思春期の女子の扱いは、まだ少し難しすぎた。

「井宿はん、どないしました?」

控室に戻ったところで、攻児がひょいと顔を上げるなりすぐにそう言った。

「どうしてそんな事を訊くのだ?」

「とびきり顔色が悪いからに決まってますやん」

彼は翼宿と二人で、何故かオセロに興じている。うんうんと唸っている翼宿の手元を眺めて、井宿はうんざりしたように声を洩らした。

「なにをしているのだ、なにを……」

「負けたほうが明日の昼飯奢るって約束なんや、話しかけんな、気が散る」

「誰がどう見ても君に逆転の余地はないのだよ」

「やかましわ!今月大ピンチやぞ俺!」

──サボらず黙って仕事をしていれば、こんなくだらない賭けに負けることも無いだろうに。

井宿は棚から分厚いファイルを取り出し、机につく。

「あれ?もうお嬢日誌つけよるんでっか?」

毎晩一日の締めくくりにつけることになっている日誌だ。「お嬢日誌」の名の通り、一日の彼女について書くことになっている。海外出張が多い主人の帰宅の度に、まとめて提出しなければならない。

これはこの屋敷に仕える者でもごく一部しか知らない事だが、つぐみは主人の実の娘ではない。だがその溺愛っぷりたるやなかなか強烈で、事情を知らない翼宿や攻児達は予想さえしていないだろう。

「……今日は、多分ずっとあの調子だから」

「なんやご機嫌斜めでしたなあ。いつもなら、帰り道はそこそこ話し掛けてくれはるんに」

「せやな、確かに今日はおかしいわ」

「ほんまになー、井宿はん、やっぱ部屋で何かあったんでっしゃろ。こら幻ちゃん。こっそり俺の石ひっくり返さへんの。バレとるんやからな」

苦笑しながらも、井宿は視線を日誌から上げることなく再び口を開く。

「ああ、明日から送迎をするなときつく言われてしまったのだ」

「それアカンやないですか」

「お前、何してん」

井宿と違い、自分が何かした可能性というのは微塵も頭をかすめないらしい。揃ってあっけらかんとしたものだ。

「……で、なにも書けそうな事は無いのだ?」

「あらへんな」

「そうか……」

それならばと午前中の様子を思い出し、ペンを走らせた。いつもなら省くような小さな出来事も、多少誇張すれば使える。

一喜一憂する若者二人の声をバックに、井宿は小さなため息をついた。
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