成×御

□フィナーレ
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フィナーレ




自分は案外冷静でないのかもしれない、
そう思った。
最後の重大な仕事を前にしているというのに、かつて超自我の完全なる制御下に置かれていた「私」は、もはや私の手に負えない。
いや、もとから制御などできていなかったのだ。
結局私はあの日、寒い冬のエレベーターの中の中に捉われたままなのだ。
勝手に外に出た気になっていた。私は本当はあの鉄の箱の中15年の間、昇ることも下ることも、出ていくことすらできていなかったのに。
滑稽だ。
溢れ出す感情と記憶を制御できない。私の過去の記憶とおぼしきものが氾濫して目の前に浮かんでは消えていく。強い既見感を覚える光景と、現実の私を取り巻く風景が、交互に私を急かす。
最後の仕事を果たせ、と。
麻薬中毒者はちょうどこういう状態なのではなかろうか、と思う。
意識と視覚は非常にはっきりと覚醒し鋭敏になっていた。同時になさねばならない仕事もはっきり自覚していた。
奴を、裏切り者を、消さなければならない。



小さなホームで発車ベルが鳴る、私は確かな足取りで最後尾の車両の最後尾のドアから乗り込む。
下り電車、終電。その割に人はまばらである。
奴も電車に乗り込んだはずだ。
昨日入手したばかりの毒薬を確認する。
「殺気」というものが本当にあるのだとしたら、人が少なくてほんとうに良かった。気取られてしまうところだ。
私はドア近くに立った。
眠気に襲われて、奴からうっかり目を離してしまわないように。
私は奴を確実にしとめなければならない。
確実に息の根を止めて、この世から跡形もなく消し去らなければ。
気分が高揚している。
15年間ずっと奴を探していたのだ。この手で断罪するために。
チャンスは今一度きりだ。
そ知らぬ顔をして断罪し続けた犯罪者を、消し去るチャンス。
奴は2か月前、友人の弁護士の尽力によって無罪判決という名の免罪符を手に入れた。
もう私しかあいつを裁ける者はいない。
今やらなければ奴はまたのうのうと生きていくだろう。
そんなことを許すものか。
機会は今巡ってきた。
もし神がいるとしたら、素晴らしい喜劇作家に違いない。
私の最後の仕事はその喜劇にふさわしいフィナーレを飾ることだ。
奴と、……私自身の死でもって断罪することによって。
それは、生きていく意味を失った私が、二か月かけて見つけた最後の答えだった。


暗転。


少年時代の奴が見える。
顔を覆い慟哭している。
父親の葬列。
犯罪者が悲しむとはよくできた喜劇だ。
無罪?
馬鹿な。
無罪、むざい、
言葉が恐ろしいほど軽い。こんな心許無い判決を巡って争ってきたのかと思うと眩暈がしそうだ。
無罪が何だというのだ。
奴は自分の父親を殺し得たのだ。奴が投げつけたピストルの暴発は父ではなく先生を襲ったが、そんなことは偶然にすぎない。父親を殺さないで済んだのは、あいつ本人さえ知らなかった幸運だったのだ。
両手で顔を覆い嗚咽する少年。まだ子供らしい細い両手は不幸の仮面だ。
父無し子という、同情に余りある仮面。
その後、一人の法廷係官が無実の罪で起訴されて人生を棒に振った。それによって少年の不幸の仮面は守られた。
誰もがあの仮面に騙されて同情し、その下の醜い素顔に気付かない。奴がどんな罪を犯しているのかも知らずに。
15年間私が責め苛み続けた奴は、あのとき他者の犠牲のもと巧妙に逃げおおせたのだ。


暗転。


まだ少年とも呼べるような年頃の青年が見える。
被告人を有罪にするためには手段を選ばない、師に教えられた鉄則を信条とする無敗の検事。
先生や奴のやり方を批判する輩は少なくなかった。あいつはそんな奴らを空想的理想主義者だと嘲笑っていた、正義は綺麗な手段だけでは達成され得ない、早くそれに気づけ、と。
冤罪もあったかもしれない、しかし合法的手段だけでは断罪できない相手を幾人も裁いてきた。
先生も、
…あいつも。



電車が単調に揺れる。窓。冴え冴えと晴れた夜だった。先生のいる刑務所に窓はあるのだろうか。
先生に会いたくなった。先生が犯罪者と分かった今であっても、私は先生のもと暮らした日々を虚構に満ちた悲惨なものと思うことができずにいる。
先生は潔癖で厳格であったけれども、私に対する態度は自然で時には家族と錯覚するほどだった。
それはささやかな幸せだったのに。
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