きみのこえ

□day 5
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     きみのこえ
−day 5−





やっと一日が終わった。
時間がくれば、エプロンを脱ぐことができる。
ロッカーにしまっておいたカバンを出せば、大和からのメールが到着していた。

「フランス寒い。ものすごく寒い。キタさん優しくない」

泣きごとを綴られたメールは出発した日から毎日来ている。
その度に何度も励まして、大和は励まされて、明日も頑張ると言って終わる。

「お疲れさまでした。また明日」
「お疲れさまでした」

先輩に声をかけられて、私は頭を下げる。
繁華街の中心部にある大型書店でのアルバイトが決まって、今日は一週間目の出勤日だった。
慣れない作業は多いけれど、本屋という場所柄からなのか、客層は決して悪くない。
働いている側も多少癖はあるようだけれど、皆概して優しい。
帰り道に大きな街頭ヴィジョンでヤマトのプロモーションビデオが流されていた。
先月発売したというのに、今月発売のものを押しのけて流される辺りがヤマトの人気を物語っている気がする。
大画面に大写しになるヤマトの美麗なその顔と、耳を奪う声に大勢の人が立ち止まっている。
私はヤマトよりも、ヤマトを見ている人の方が気になって、近くにある植え込み周りのレンガ囲いに背中をつけた。
目を釘付けにするというのはこういうことなのだろうなと辺りを見ていると、急にトンと身体が触れた。

「失礼」

そう言って女の子が私隣にくる。
今時珍しい染色の雰囲気さえないもっさりした三つ編みに、だぼついたパーカー風の上着、スカートは膝下でブーツを履いている。
それも可愛いブーツではなく、これもまた作業ブーツのような長靴風。
大和のかけている厚手の眼鏡と同じくらい、分厚くて不格好な眼鏡をかけていて、表情は良く見えない。
こんな繁華街に一人でふらっと来るタイプには到底見えないのだけれど、その子はまるできょろきょろしたりはしない。
当たり前の指定席みたいに私の隣に来て、携帯をぱくりと開く。
それから操作して、また閉じる。
こんなにも周りがヴィジョンを見上げているというのに、その子だけは知らない顔をして、声さえ耳には入っていないらしい。
何故か気になる。
女の子はすっと場所を離れ、どこかに電話してるらしい仕草をして、また戻って来た。

「ヤマトマジかっこいー!」

そんな声がして、私ははっとした。
もうすでにプロモーションビデオは終わっていて、今は車のCMをやっている。
大和曰く、車ではなくタイヤらしいのだけれど。
漆黒のスポーツカーに、ヤマトの白い肌が映える。
王様のような瞳で車を操るヤマトはてかてかとした質感のレザーを身に纏い、最新のCGがヤマトとその車を華やかに見せている。

「あの車良くね?」
「超速そう。あれ400km出るって聞いた。すっごい改造してるんだって。ヤマトの私物らしいよ」

一体誰がそんな嘘を。
思うと頭が痛いけれど、そう言えば首都高にどうこうとか雑誌に載っていたし、その辺の曖昧な情報が尾鰭をつけて独り歩きしたのかなとも思う。
きゃあきゃあと話をする若い男女を見ていると、隣から声が聞こえた。

「出るわけないでしょ」

微かな声。
けれど完全に嘲笑混じりのその声の主は、三つ編みの子しかいない。
今はもう右手を丸めて口元にあてているから、表情は全く見えないけれど、他にその場所にはその声の主が見当たらないのだから間違いない。
騒ぐ男女が気に入らなかっただけ、なのかもしれない。
でも、だとしたらもっと不機嫌に言うものじゃないか。
くすりと笑うようなその余裕の声、どうしても心に引っかかった。
あまりにもまじまじと見ていたものだから、ふいに視線を感じたその子が私の方を見た。
あっと思った時にはカバンを落とし、落としている最中で中身をぶちまけてしまった。

「あ、す、すみません!」
「いいえ」

広がったのは主に求人誌。
アルバイトに甘えてはいけないと、普段から仕事を探すことだけは続けようとしていていつも持ち帰っている。
私の慌てる様を見てもその子はいたって冷静で、すっと荷物を拾って手渡してくれた。
冷たい子、ではなさそう。
私は荷物をカバンにしまいこんだけれど、焦っているからなのかうまく求人誌が入らなくて手に握った。
それからもう一度頭を下げる。

「すみません、ありがとうございました」
「いいえ」

むっつりしたままのその顔で言葉は冷たく、それから先へは踏み込ませないという雰囲気があった。
何故か気になる。
気にはなるけれど、だからといってどうしようもない。
私は最後に一度頭を下げて、ぎゅうっと無意識に求人誌を握りしめた。
私は一体彼女に何を聞きたかったのだろう。
それさえ、わからない。
もやもやしたままその場を離れようとしたところで、目の前に派手な外車が乗りつけてきた。
周りの人たちはその派手さに引いて、徐々に輪ができる。
ドドドと低いエンジン音を唸らせたまま、運転席から男の人が出てきて右手をあげた。

「キミちゃん!」

30後半か40手前といった風の男の人は、少しだけ渋くて男前。
大和のような線の細さはないけれど、がっちりとした男っぽさがある。
清潔な白いカッターシャツを着ているけれど、腕まくりをしていたり胸元のボタンをあけていたりとやたらと色気がある。
さっきまでヤマトのことできゃっきゃ言っていたお嬢さんたちも、ちらちらと目線を送っている。

「黒木さん!」

その声は私の隣から発せられた。
華美に飾った若い女の子たちの誰一人にも目を向けず、黒木さんと呼ばれたその人は優しい微笑みを注ぐ。
キミちゃんと呼ばれた子は、さっきまでむっつりと黙りこんでいた三つ編みのあの子。
今までの愛想のなさはすっかり払拭され、はっきりと通る声に元気の良ささえ感じる。

「沢村さんOKだって? さっすがだねえ」
「ハイ。即金で660用意してくださるそうです。やっとそのV6カタつきますね」

一体何の話をしているのか、私にはさっぱりわからない。
仕事の話のような気がするけれど、この二人がビジネスマンには到底見えない。
だとしたら一体何の仕事をしているんだろう。
ブイロクなんていう商品は聞いたこともない。

「お友達?」

はたと気付いた時には二人と目が合っていた。
無意識のうちにじっと見つめていたらしい。
慌てて俯いたけれど、しっかり視線が絡んだ上に男前な笑顔を向けられたのだから、このまま立ち去るわけにも行かない。
キミさんはまたむすっとした表情に戻り、冷たく短い言葉を発す。

「いいえ」

この人のイイエはもう三回目だ。
やたらとイイエが多い。
私がそろりと顔をあげると、黒木さんは顎を擦りながら相変わらず微笑んでいる。

「そう。何だか似てるなって思ったんだけど」

キミさんは黒木さんに見えない位置で、どこがという表情を浮かべている。
この状況を打破するために、自分がどうしていいのかわからなかった私に黒木さんが人差し指を向ける。
ふとその指の先を見ると、私の手にある求人誌に向けられていた。

「君、仕事探してるの?」
「黒木さん」
「良いじゃない」

キミさんに制止されても、黒木さんは飄々としている。

「声かけるのは可愛い子だけだよ」

そう言われてキミさんはひどく不機嫌な顔になる。
ただそれ以上は黒木さんを引き留めようとはしない。
もしかするとこういうことは初めてではないのだろうか。
黒木さんは私の方に足を進めて、少し屈んで私の目線に合わせた。

「仕事したいなら、一緒においで。芸能人にも会えちゃうかもよ」

目の前数センチでそうやってにっこり笑顔を見せられると、なぜだかかあっと顔が熱くなる。
でもその熱は一瞬にして引いた。
仕事はしたい。
どんな仕事でも、良い。
でも芸能人は、駄目だ。

「いえ。結構、です」

万が一にでもその業界の人に触れることがあって、それが原因で大和の仕事に影響が出てしまったら。
それを思うと絶対に選択できない。
気をつけていても、可能性がないとはいえない。
だとすれば自分から小さな芽を摘んでいくしか防御できない。
求人誌を後ろ手に回して隠し、私はぐっと下を向く。
何か勘ぐられたらまずい。
もしものことがあったら大和にどう謝れば良いのかわからない。
けれど黒木さんはそういう私の心の内は読めないようで、呑気な声をかけてくる。

「あらら。警戒させちゃったかな。大丈夫だよ、怖くないよ。変な仕事じゃないよ」
「むしろその言い訳が怖いです。変質者だと通報されますよ」

ツンとしたキミさんの言葉に私は再び顔をあげる。
腕組みをしているキミさんに、情けない顔をして黒木さんが訴えている。

「キミちゃん、ひどいよ」

へらっと笑ったその顔をどう裏読みしても、悪い人には思えない。

「この間さあ、富原さんが探してたんだよ。働ける人」
「いつお会いしたんですか。まだS2000の代金回収完了してませんよ」
「あれ、そうだっけ。それよか356欲しいって言われたよ」

そう言われてキミさんは黒木さんの胸元に人差し指を突き付ける。

「どっち乗りたいんだって胸座掴んで唾吐いてください」

キミさんはどうやら性格が激しいらしい。
うわあ、怖いと黒木さんが冗談っぽく言って笑っている。
それにしても私とそう年は変わりそうにないというのに、キミさんという人は言葉がなんだか乱暴だと思う。
そう思っていると黒木さんとまたしても視線が絡んでしまった。
その隙を逃すまいと黒木さんは両手の平を私に見せながら、さっと身体を近付けてくる。

「あのね、俺の知り合いの人のところ人手不足なの。普通のちゃんとした会社だよ。求人誌にも情報出してるけど、なかなか良い人が来てくれないんだって。良かったら連絡だけでもしてみてよ」

そこまで一気にまくしたてられて、私がぱちぱちと瞬きしていると、黒木さんはふっと表情を淡く艶めかせた。

「きっと君なら大丈夫だよ」

きっと、君なら、大丈夫。
その言葉がじわりと耳の穴の中で広がる。
熱っぽいその単語が私の脳みそを溶かし始める。
どのくらいぼんやりしていたのかはわからないけれど、キミさんに手渡された手帳に何かを書き、ページを破って私に差し出した。

「はい、これ会社名と連絡先。直接電話してご覧。それで怖いキミちゃんの紹介ですって言うの」
「黒木さん、怒りますよ」

もう既に怒っているような冷徹な表情で言うキミさんに、黒木さんはまた茶化して情けなく笑って見せる。
キミさんはつんとした表情で私を見つめる。

「黒木が356を用意すると言っていたと言えば伝わるわ」
「サンゴーロク」

サンゴーロクとは一体何だろう。
聞いたこともない。
更にキミさんは眉一つ動かさずに言葉を早口で繋いだ。

「そうよ。サンニーでもサンサンでもサンヨンでもなくて、サンゴーロク」

サンニーもサンサンもサンヨンも知らない。
それらは仲間なのだろうか。
ぽやんとしている私からブンと顔を逸らしてキミさんは黒木さんに訴えた。

「356じゃなくてカマロRSのガルウィングが入ってたから、あっち売りつけちゃえばよろしいのに」
「いや、無理でしょ。あれは若杉さんとこ持ってった方が良いよ」

アハハと豪快に笑って黒木さんは歩きだした。
じゃあね、気が向いたら連絡してあげてと言いながら派手な外車に乗り込んだ。
キミさんも助手席に乗り込もうとドア前まで歩いて行ったけれど直前で踵を返し、つかつかと私の前まで歩いてきた。
ぐんと近づいたその距離で、私は初めてキミさんの顔を正面から見据えた。
眼鏡の向こうの顔。
長い睫毛、シミ一つないきめ細かい肌、茶色っぽい瞳の奥に光る勝気で意志の強そうな炎。
何故だかその瞬間、この人はわざとこういう格好をしているのだと分かった気がした。
キミさんは綺麗な唇を意地悪に歪めて、私に言葉を上から注ぐ。

「ブローカーって何でも拾おうとするの。悪い癖でしょ」
「ブロ、カ」

やっぱり私はそんな言葉知らない。
馬鹿の一つ覚えのようにしてオウム返しする私をキミさんはふっと笑って、くるりと背中を向けた。

「早く仕事見つけた方が良いわよ」

右手人差し指と中指を交差させて、ゆっくり弧を描くように振る。
グッドラックの意味だということくらい、私にもわかってる。
仕事探さなきゃいけないことだって、そんな大きな声を出さなくたってわかってる。
さすがだね、なんて言われてあんな笑顔を一心に受けることのできる貴女の技量も分かっているつもり。
颯爽と車に乗り込み、シートに身体を預けた途端、柔らかな女性の表情を見せる貴女のことを、私はやっぱり可愛いとも思う。

「スゲークルマ」

そんな風に言う通りすがりの人たちの人波に飲まれて、車は見えなくなった。
それでも耳に残るあのエンジン音。
爆音でアスファルトを蹴り上げ走って行く赤い車が、スペシャリティカーの元祖であるフォードマスタングだなんてこと、この時の私は知る由もない。
いやこの先もずっと、それがそうだとわかることはないのだけれど。



続く

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