きみのこえ

□day 11
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     きみのこえ
−day 11−



久しぶりに自分の感情が凍りついて行くのを感じた。
知らない男に声をかけられて、やはり良いことなどは一度もなかった。
風俗業務への勧誘だったり、宗教への勧誘だったり、とにかくろくなことはない。
もう二度と足なんか止めない。
そう心の中で誓いながらも顔の表情が強張って、口調は気付かない内にやけに早くなっていた。

「わかりません」

そう言って歩き出す。
にやにやしたその顔を見ているだけで気分が悪くなってくる。
私のその短い言葉に、男はまたもそもそと動く。
不快な理由はその身だしなみによるものかもしれない。
洗っていないような脂ぎった髪や、洗濯の気配を感じられない薄汚いコート。
何より顔を洗っていないかのような無精髭と時々覗く黄色い歯が嫌だ。
でも男は私のそんな気持ちなどはわかっていないようで、すぐさま私の歩調に合わせて歩き出して馴れ馴れしく話しかけてくる。

「そんなことないでしょ。だって分かるじゃない」

一体何を根拠に、決めつけているのかは本当にわからない。

「あの、ここのマンション管理費だけ払って後は特に組合もないんで」
「そうじゃなくて」

わざとらしく溜めながらそう言って、ポケットで動かしていた右手を出す。
ぐしゃぐしゃになっているソフトケースから煙草を一つ取ると、ひん曲がっているのも気にした様子なく咥えて火を付けた。

「最近噂になってんだよね。ヤマトの事務所の車がここに入ってるのをよく見るって」

煙を吐き出しながら笑う男に、私はまた愕然とした。
残念ながら心当たりはある。
キタさんのことだ。
グラビアアイドルのことで大和がここに帰ってこれなかった時や、私が衣装を作り始めてからはよく来ていたから、その時のことだろう。
でもその時には大和は車に乗っていなかったし、キタさんは見た感じ普通のサラリーマンで、とても見た目だけで職種を断定できるような体ではない。
事務所や関係者の車と言うのは、ナンバーか何か控えられて目印にされるんだろうか。
どうしよう、芸能事務所の人がいるみたいですからなどと嘘でも吐いた方が良いのかと頭の中がぐるぐるし始める。
でもそんな嘘を吐いても意味がないように思えるし、変に突っ込まれて、上げ足でも取られた方が困る。
どのくらいの間私が沈黙を守っていたかわからないけれど、男は少し大袈裟に声を張り上げた。

「案外アンタもヤマトに会いたくて入居したってクチじゃないの?」
「そんなこと!」

しまったと思った。
こんな大きな声で、ここまで否定するのは逆に怪しまれる。
けれど咄嗟にそう反応してしまって、またぐっと身体を委縮させてしまった私は、男のにやつきを止められない。

「ま、良いや。ここんとこ張ってれば嫌でもわかるってね」

それから私がどうやって男の傍を離れて、仕事をして、帰って来たのかはほとんど覚えていない。
多分、ばれたのだと思う。
それくらい私の態度はあからさまだった。
はっきりと口には出していないけれど、おそらくは向こうも何らかのプロだろうし、気付かれたに決まっている。
あえて嘘を吐いたり取り繕ったりしなかった分、確証はないだろうけれど、帰って来た時にも男はいた。
いくらか、それも結構な確率で思うところがあるからそこにいたのだろうと思う。
私に対して右手をあげて、さも知り合いに挨拶する風にされて、情けなくて涙が出そうになった。
今まで一度も大和に迷惑をかけることになるなんて、考えたこともなかった。
だからその話をキタさんに電話で知らせる時、発信ボタンを押す指が震えて止まらなかった。
今も携帯電話を握っている右手が小刻みに震えている。
話をどこから切り出せばわからなかったので、とにかく初めから順番にキタさんに報告した。
キタさんは動揺する風もなく、淡々と話を聞いてくれて、全部が終わったところで呟くように話出した。

「そっか、そりゃ参ったな」

少しの沈黙があったけれど、私はその間に何も言えなかった。
キタさんからの指示を待っている自分がどこかにいて、またあの時と一緒だと思った。
結局グラビアアイドルのデマ騒動の時に、私は何一つできることなどなく、誰かが何とかしてくれるだろうと思っていた。
あの日の私から、一つも成長していないということだろうか。
だとしたら心底情けない。
でもやっぱり言葉にはできなかった。
頭の中で何かに結びつこうとしても、それはあっという間に解けて言葉には成り立ってくれない。

「追い払ったらヤマトくんが本当にそこに住んでるんだって自分からバラすようなものだもんね」

無言で私は頷いて、電話だからそれでは伝わらないと慌てて声に出してハイと言った。

「まあ、しばらくはそっちに帰らないように言っておくよ。美弥子ちゃんも十分気をつけて。そういう人たちって本当にしつこいから。部屋番号とか、住んでる階数とかバレないように気をつけてね」

キタさんは優しくそう言って、一人でエレベーターに乗る時は数階分ボタンを押しておくとか、帰宅してもすぐに電気をつけないとか、いろいろ自己防衛の策を教えてくれた。
大和の所属する事務所は当然大和以外にも芸能人を抱えているわけで、教えてくれたいくつかの方法は実際にそういう人たちに向けて教えていることなのかもしれない。

「あと、万が一のことがあったら怖いから」

キタさんはそこで区切って、少しの間を開けた。
私がどうしたんですかと問う前に、小さな声でぼそぼそと聞こえてくる。

「携帯の履歴とか、消した方が良い、かもね」

誰からの、とは言わない。
それは当然大和に関する履歴全てと言うことだろう。

「わかりました」

今見てもにやけるような嬉しい報告のメールも、全部消そう。
保存している写真も、消しておこう。
胸の中でどんどんと私のするべきことはわかってくる。
それはたいしたことないように思えて、後でひどく後悔することが目に見えてわかるようだった。

「美弥子ちゃん」

キタさんの声に、はたと気付く。
怖い顔をしている自分が鏡に映っていて、慌ててぐしゃぐしゃに顔を撫でた。
電話向こうから、小さな声が続く。

「ごめんね」

突然のことに私はぷっつりと思考が止まった。
それでもすぐに戻って、急くようにそれを否定した。

「そんなそんな。どうしてキタさんが謝るんですか」
「本当にごめん。万が一バレても困るのはヤマトくんだけだと思ってたから」

それはその通りだと思う。
そして今のこれは被害と言うには余りにも小さい。
特に手出しをしてくるわけでもなく、ただにやにやされているだけ。
故意ではなければそう言う人は少なからずいる。
あの男だって仕事じゃなければ、ずっとあんな場所に立っていたりはしないだろう。
私は特に困っているわけじゃない、ただ単純に大和の所在を掴まれることが怖いだけ。

「私は大丈夫です。大和の人気がある証拠、ですよね。大丈夫です。大和が帰ってこなかったら、すぐ諦めますよ」
「部屋、別のところにしても良いんだけど、ヤマトくんは美弥子ちゃんの隣の方が良いと思うんだ」

初めはあんなに嫌がっていたのに。
そう思うとなんだかおかしくて、自然と顔が緩む。
私は心底キタさんの言葉が嬉しくて、思わず声を大きくした。

「そう言って貰えるだけで嬉しいです。私も大和の傍にいれて楽しいし、嬉しいから」

だから、何だろう。
私にはその先がわからなくて、曖昧なままの報告を終えた。
わからないままの感情は携帯のメモリーごと、全部なかったことにした。
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