きみのこえ

□day 11
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数日の間、男はずっとマンション前に居続けた。
時々他の人に話をしているところを見たりもしたけれど、大抵皆初耳のようで首を傾いだりしていた。
ただ、中には本当にそうなら郵便受けを探してみると興奮している人もいるようだったのが悲しい。
男は一人でいる間、私を見かけるとやっぱり笑って右手をあげた。
私はそれをふいと視線をずらして見なかったことにして、バイトに行くことが日常化してきた。
接触しないようにしよう。
そう決めて歩くと、いつもより足が痛かった。
仕事を終えてくたくたになって帰るその道すがら、ぽんと肩を叩かれた。

「よう。アンタ本屋の人なんだ」

どうしてと思うことに少し遅れて、つけられたとわかった。
当たり前と言えば当たり前で、単純だけれど全く気がつかなかった。
まさか自分が尾行されるなんて思ってもいなかったし、今までそんな経験もない。
いつもはマンション前にいるあの男が、私の後ろに立っている。
薄汚れたコートはいつも通りだけれど、大きな黒い鞄を肩からかけて馴れ馴れしく笑っている。

「暇だったからさ、ちょっとね」

にやりと笑うと、またこんな人通りの多いところで煙草を咥える。
火はつけないけれど、口につっこんだままに話をするのは気持ちが悪い。
ほぼ初対面の人間と話をする格好にしては失礼極まりないと煙草を吸わない私は思うのだけれど、喫煙者からするとそうではないのだろうか。

「怒ってんの?」

にやにやしながらそう言われて、私は両の手をぎゅうと握りこんだ。
指の先が冷たくなっていくのが自分でわかる。
かっと頭に血が昇って、図星だからこそ余計に腹が立つのかもしれない。

「あの、私は本当に関係なくて」
「アンタ、ヤマトの隣の部屋に住んでるんでしょ」

もう怒っているのか、悲しいのか、情けないのか、わからない。
心の中に波が立つ、という表現があるけれど今はまさしくそれに近い。
大きな波が全部を飲み込んでどこかに行ってしまう。
行ったり来たりの大波に心の中身が全部持って行かれた。
爪の食い込む手の平が痺れてくるけれど、それを解くことすら私にはできない。
喉から出てくるのは絞り出した声だけ。

「誰が、そんな」
「情報ソースはバラせないよ。でもその顔、大当たりってわけだ!」

男は勝ち誇ったように笑って、ごそごそとバッグから大きなものを取り出す。

「笹野美弥子」

見覚えのあるそれに、感じたことのない感情を覚える。

「ほら、アンタの卒業アルバム。仲良しのお友だちもいなかったみたいだねえ」

男の持っているそれは、私の高校の卒業アルバムだ。
どこでどうして手に入れたのかはわからないけれど、アルバムを名簿業者に売る人がいるというのは聞いたことがある。
友だちがどうこうというからには、誰かから個人的に買ったものなのかもしれない。
確かに高校生時代、私には仲良しの友達など一人もいなかった。
大和を除いては。
この卒業アルバムには大和は載っていない、それだけが救いだった。
中退は本当に寂しい話だったけれど、結果的には一番最良の手段だったと今になってわかる。
こんなくだらないことであっさりと他人の手に個人情報が渡ってしまうなんて、気持ちが悪くて眩暈がする。

「こりゃ傑作だ。アンタ今と何にも変わってないんだね」

私の何も知らないくせにそう言って男は笑う。
高校生時代、化粧の一つも知らなかった私と就職活動に向けて努力をしている私の間は、本当に何も変わっていないんだろうか。
友だちがいなかった、と笑った男にとって未だに私はそう見えているということなのだろう。
道を歩く人たちがちらちらとこちらを見ているのがわかる。
情けなくて動くことさえできない。
笑うのを止めさせるには殴りでもすれば良いんだろうか。
でもきっとそんなことさえ男には想定の範囲内なのだろう。
警察沙汰にでもされれば、私のことを男はもっと深く知ることができる。
そして私を尾行したように、私の気付かない間にいろんなことを勝手にもぎ取って、大和に近付くのだろう。
誰かに話したい。
でもどこから誰に話せば良い。
誰かなんて曖昧な人には話せない。
今、大和に話したい。
腹が立ったことや泣きたいことは、全部大和に話してきた。
数十社に履歴書を突き返された時にだって、大和が話を聞いてくれたから、今でも仕事を探そうと前向きでいられる。
今、大和に聞いて欲しい。
そうしたらこんなに惨めな気持ちにならずに済むかもしれない。
情けなくて、泣きそうだ。
どうして私がこんなに馬鹿にされなきゃいけないのか、私だけでは理解できない。
私は馬鹿にされて当然なのか、それとも笑っている男が最低なのか、どちらが正しいのかもわからなくなってきた。
今、大和に会いたい。
でもそれは絶対にできない。
唇を噛んで我慢する。
我慢するのは嫌いだけど、ずっと今までそうしてきた。
ほんの数日、我慢する。
だからお願い、大和は無事でいて。
そのために連絡はキタさんだけにした。
たくさんの仕事を抱えていると言っていたのだもの。
その仕事が一つでもうまく行っていますように。
男はまだ何か話していたけれど、もう何も聞こえない。
右足を出したらぐんぐんと人の間を抜けて、家路を急ぐ。
足は痛くてしょうがなかったけれど、地面踏みつけるくらい叩きつけなくては、前に進めなかった。



続く
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