きみのこえ

□day 12
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     きみのこえ
−day 12−



気分が悪い。
朝起きると頭痛がして、胃の中身が戻る。
喉を焼くのは胃液なのだろうか。
昔調子に乗ってお酒を飲み過ぎた時の戻し方に似ている気がした。
鼻をつまんで戻すと、うまく喉からだけ戻るから楽だと誰に教えて貰ったんだろう。
雑に口元を拭って歯ブラシを咥え、磨き終わったらさっさと用意して家を出る。
もちろん連日大和の所在を突き止めようとするあの男がいるけれど、もうどうでも良い。
考えている暇がないほどに、ここのところずっと調子が悪い。

「いつヤマトが接触してくるかわかんないしね」

そう言って私の後をずっとつけてくる男は、どこからかの情報でも握ったのだろうか。
高校生時代しか私と大和の接点はないのだから、高校の卒業アルバムを握っていながら、大和に辿りつけない男は少し惨めでもある。
一番真実に近いところまで自力で辿りついておきながら、最後の扉の鍵は私が持っているのだと勘違いして執拗に追いかけてくる。
その扉には鍵などかかっていないのに、全くご苦労なことだ。
男は最近エントランスまで図々しく入ってくるようになった。
さすがにそこから先に入るのは失礼だと私が必ず追い返すし、本人もそそくさと出て行ったりするけれど、いつその図々しさで各階を探すようになるかはわからない。
なるべくキタさんに言われた通りの防御策は実行しているけれど、何となくこの男には通用しないような気がしてきた。
今日もいつも通りに帰宅するとマンション玄関を開けるため、鍵を差して暗証番号を入力する。
いや、そうしようと鍵を取り出したところで、その狭い場所に見慣れない女の人が立っているのが気になって止まった。
紅茶色のスーツに身を包み、エレガントなフリルの襟と清潔感のある白いシャツがいかにも仕事のできる女と言った風で少し見惚れる。
身長こそそんなにはないけれど、醸し出す雰囲気に圧倒される。
膝下のタイトスカートが全体を締めて、品の良いハイヒールをこつこつと鳴らして私に近付いた。

「失礼」

その美人は前髪をきっちりと真ん中で分け、知的な額を見せる。
きゅっとあがった眉が何とも賢そう。
芯の強そうな瞳でぎゅっと見つめられながらそう言われ、私は何となく身を引いた。

「恐れ入りますが、こちらにお住まいでらっしゃいますか」

あくまで丁寧にそう言うけれど、下手に出ている風は一切感じられない。
サービス業として特有の口調ではないと私は受け取った。
高くも低くもなく、落ち着いたその声は私の後ろの男に向けられていた。

「いや、俺は。あの、こういう者で不審者じゃ」

男が今まで見たことないほどに少し慌てているのは、やっぱり少なからず私と同じことを感じたからなのかもしれない。
他の誰に渡しているところを見たこともないけれど、胸ポケットから名刺を取り出すと雑に美人へと手渡した。
美人はそれを受け取ると、まじまじと眺めてからもう一度男に顔を向けた。

「申し訳ございません。こちらはここまでがエントランスでして、全て入居者専用ですので」

名刺を受取っても、拒否の姿勢は崩さない。
渡された名刺に何が書いてあったのかはわからないけれど、正式な取材ではないということがわかったのだろう。
エントランスを含め玄関周りで長時間の占拠は迷惑ですとはっきり美人は言いあげて、男をしっかり見たまま動かない。

「俺はこの人に話があって」

往生際悪くそう言って男は私を指さす。
へらへらと笑っているその顔を見ていると胸糞悪くてしょうがないけれど、唇が戦慄いて一言も言葉にならないから悔しい。
関係なんてありません、知らない人で迷惑しているとどうして声にならない。
肝心なところで勇気を出せない自分に腹が立ってしょうがない。
いらいらだけが募る私を美人は見るなり目を瞑り、それからもう一度男に向き直った。

「関係者でなければ、どうぞお引き取りを。あまり騒がれますと他の入居者の皆様にご迷惑がかかりますので」

わかってくれた。
そう思うと肩の力が抜ける気がした。
美人は勝気に話をして、完全に男を取りこんでいる。

「本当に俺は話しただけで」
「恐れ入ります。私も依頼があって参りましたので、これ以上話し合いの余地はございません。事を荒立てるのであれば、民事の域を超えざるを得ませんが」

そう言って美人は手にしていた携帯電話をゆっくり掲げる。
素人の私にだって、住居不法侵入罪とかいくらでも思い当たる節はある。
男は更に頭の中に浮かんだのだろう、嫌な顔をして背中を向けて出て行った。
それでも玄関周りでうろうろしていたので、美人はずっとその視線を送り続けている。
視界から消えるまで見ているのは、この人の仕事なのだろうと私はそのプロ意識の強さに感動さえした。
男がいなくなって、私は頭を下げた。

「あ、ありがとうございました!」
「笹野美弥子、仕事は決まったの?」

頭の上から聴こえて来たその言葉に、私は目を見開いた。

「関係したくない人との会話は、簡潔にイイエで済ませるべきよ」

がばっと顔をあげて美人の顔をもう一度良く見る。
その強気な瞳と意味深なイイエ、の繰り返し。

「キミ、さん!」
「そうよ。誰だと思ったの」

美人過ぎるキミさんはそう言ってつんと顎をあげた。

「え、マンションの管理人さんかと」

なにせいかにも隙のない仕事をしていますと言った雰囲気のそのスーツ姿に、きっちりしたメイクはあの日のキミさんには重ならない。
大体あのやぼったい三つ編みなどはどこに行ったのだと思うほどに、長い綺麗な髪がさらさらと背中で揺れている。
とはいえ、人を馬鹿にするようなその視線は良く見れば変わっていない。
私に向いていなかったから、気付かなかったのかと今更のように気付く。

「貴女自分のマンションの管理人の顔さえ知らないの」
「はい」

心底馬鹿にした溜息を吐かれて、私は何だか落ち込んでしまう。

「それに、だって、依頼されたって」
「黒木さんにね。私は一言もこのマンションの関係者だなんて言ったつもりはないけど」

考えてみればそのような気もするけれど、それにしても全権利を任されたような言い方をしていたのはどういうことなのだろうか。
そういえばキミさんはエントランスにはいなかった。
もし本当に管理人に依頼されたマンションの関係者なら、あんなところで待つわけがない。
エントランスに入れば、座れる場所も風をしのぐこともできるのだから、不自然と言えば不自然な話だった。
余りにも自信満々に振舞うキミさんに私もあの男もすっかり騙されてしまった。
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