彼と彼女の純情事情

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石とか砂利とか、そういうものが詰まった靴がこんなに重いと感じるのは初めてだった。


朝だというのに外は早くも紫外線の嵐である。
女子らしくメラニンとか気にする余裕もなく、私はただ睨むような日差しの下で、学生の義務を遂行していた。

即ち、登校である。

朝起きて目的地に向かって歩くだけという生活のリズムの一部は、どうしてこうも人を陰鬱な気分にさせるのか。
私の足取りは地面に埋まるんじゃないかってくらい鈍重だった。
力を込めている訳ではないのに、地面を踏みしめる足の裏に過剰なまでの体重が掛かって、空気に足を押し付けられている様だった。

なのに私の歩調には芯が無い。
少しでも大気の質量を取り入れれば、膝から崩れ落ちそうな不安定感。
茹でた野菜みたいに、今の私には抵抗力もない。


原因は分かっている。けど、殊更に思考へ招き入れたりはしない。
昨日の夜から、脳がそれを思外へ追いやる事を徹底していて、認識する事すら許されないのだった。




なぜか今しがたふと思い出す、あのストーカー系男子。
最近大人しいと思ったら、彼女が出来たとかなんとか。

別に悔しいとか寂しいとか後悔とかごくごく微塵も紙一重にも感じていないが、少し、思う所があった。


――――あいつも結局、私の事雲の上だって割り切ったのかなぁ。


――――菅原くんみたいに。


……あーあ、結局繋がるんじゃんかと溜息と共に幸せが逃げていく。
これが冬だったならば、この溜息は白い綿のようになって、私の中に確かに幸せが存在していた事を認識できたんだろうか。

幸せの代わりにその席を埋めたのは、どうしようもない虚無感だった。

もう今では、彼が好きなのか嫌いなのかすら分からない。
暴走の果てに、感情メーターの指針はボッキリと折れてしまった。
散々惹かれこんだあの笑顔も、全く脳裏に蘇ってこない。

まるで私の知らない所で世界が削減されていくようで、暴力的な気温だというのに鳥肌が立った。

今だって菅原くんに会うのが気まずくて、無意識に朝練を放棄して遅く登校している自分がいる。
気まずくしたのは、私だというのに。
昨日と変わりゆく自分の思考に辟易。

昨日の自分と今日の自分は別人なんじゃないかって結論に至って、
常識的に「そんなわけ」って思ったけど、またすぐ「その通りだ」と思ってしまった。


そう、その通りなのだ。
見た目の殻が変わらないだけで、中に潜む人格は全くの別物だった。

昨日までの私はそのままみょうじなまえだった。
でも多分、今日の私は――――"椿姫"だ。

戻ってきたのは、結局フリダシだった。
恋も期待も陶酔も自惚れも思い込みも、全部「初めに戻る」のマスを踏んでしまった。

でも不思議と、絶望感とか、そういうものはないのだ。

ただなんとなく、この後の処理をどうするかが自分の中で気がかりだった。



『まともに向き合ってこない奴らに、まともに向き合う必要なんてないでしょ』



清水ちゃんの言葉の意味を、今思い知る。
あの時私が素直に頷けなかった、その理由も。

私は"まともに向き合ってこない奴ら"の判断に失敗したのだ。
意外な展開では無かった。予兆は少し前からあった。
なのに勝手に期待して、勝手に惹かれて、勝手に傷ついて。

だから、菅原くんは悪くない。
もしこれで学校について、「ごめん」なんて謝られたら、多分私は自己嫌悪に首を絞められて発狂してしまう。


「…学校、行きたくないな」


私の隣には菅原くんが居る。

かつては舞い上がったそれも、今では色あせて、小さな神様の存在すら感じ取れなくなっていた。




***




教室に入っても、昨日の様に視線に囲まれるなんて事は無かった。
ただこちらに一瞥をくれた数人は、身を寄せ合ってヒソヒソと何かを喋っている。

それを意に介さない様に演じながら、すれ違うクラスメイトに挨拶をして席に着く。

みんな逡巡しつつも、「おはよう」と返してくれた。
横のつながりを実感するにはそれで十分だった。安心できた。


右を見ると、菅原くんの席は空席だった。
まだ来てないのか朝練中なのか、何にせよ安心している自分がいることに、私は気づく他なかった。






にわかに繁盛しはじめた教室に、菅原くんと澤村くんもHRギリギリで帰ってきた。

私と目が合った菅原くんは、一瞬停止したように見えた。
そんな彼に何事も無かったかのように「おはよ」と挨拶すると、彼も「お、おはよう」とたどたどしく返してくれた。

他のクラスメイトの反応と、全く同じだった。

これ以上菅原くんに何を望んだんだろう。
少し落胆している自分がいることに気が付いて、まだ何か言いたげな彼から、無愛想に目を逸らした。

この状況だと、絶対に誤解を招いてるなぁと、私は心中で苦笑するしかなかった。
案の定、彼は引いた椅子に足の小指をぶつけて小さな悲鳴をあげていた。
なんとわかりやすい動揺だろうか。

でももう、殊更に「大丈夫?」なんて声を掛けたりはしなかった。


そうして、私達の間の言葉は失われた。


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