短文。
□たったひとつだけ…【後編】
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「まだやってたの?」
「っ!?」
聞こえてきた声に勢いよく顔を上げると、そこにいたのは今まさに考えていたその人で。
「まだ帰らなかったんだ。もう部活終わったよ」
「えっ!?」
壁にはいつも部活が終わる時間の15分後を指す時計があった。
「いつの間にこんな時間にっ!」
「部活が終わるときに姿を見せないと思ったら…気づいてなかったんだ」
呆れる先輩に、小さくなって、すみません、と謝るしかできなかった。
だってずっと計算が合わなくて、部活開始の挨拶をしてからずっと部室に籠りきりで。
今日はマネージャーらしい仕事なんてしていない。
なので私はまだジャージ姿。
先輩はとっくに制服に着替えて、肩から鞄を掛けている。
制服と鞄…、と目にして、私は手元の領収書を見るフリをして視線を移した。
「数が合わない?」
「…え?あ、はい。領収書の枚数は合っているのに、合計金額が残金とどうしても合わなくて…」
「じゃあ僕が金額を言っていくから、千鶴ちゃんは計算して」
「え?い、いいえ。大丈夫です」
「大丈夫じゃないから、こんな時間までかかってるんでしょう」
全くの正論に何も言い返せない。
「それにこういうのは第三者がやった方が間違いに気づいたりするものだし」
「…そう、なんでしょうか」
「そんなものです。じゃあ、いくよ」
腰を下ろした先輩は私の前から領収書の束を手に取り、一枚一枚そこに書かれた数字を読み上げていく。
一人だと領収書の数字と電卓の数字とを比べながらだから時間がかかっていた作業も、二人でこなせばその時間は半分以下で。
そして…。
「あ!合いました!ぴったりです!」
「そう?よかった。じゃあ千鶴ちゃんは急いで着替えた方がいいよ。早くしないと、うるさい顧問の雷が落ちてくるからね」
「は、はいっ」
金額は合ったけど、結局その原因はわからない。でもとりあえず原因究明は明日以降にしよう。
私は頷いて鞄にしまっておいた制服を急いで取り出した。
でもその動きがぴたりと止まる。
「…あの、沖田先輩」
「ん?なに?」
「…着替え、したいんですけど…」
「ああ、僕に気にせずどうぞ?」
「でっ、できるわけないじゃないですか!早く出ていってください!」
さらっと口にした言葉に慌てて反論すると、先輩は渋々部室から出ていった。
この学校には残念ながら女子更衣室がない。
だから私はいつも部室で着替えをしていた。
それを先輩も知っているはずなのに。
いつものように鍵を閉めようか悩んだけど、外で待ってるよ、と笑っていた先輩を信用してないみたいで止めた。
そして急いでジャージの上着を脱いだ私は胸元を見て、本日一番のため息が出た。
…虚しいことに見られて困るようなものなんて持ってない。
「お待たせしましたっ」
「随分早かったね。別にそんなに急がなくてもよかったのに」
「そういうわけにはいきません。それに、早くしないと、って言ったのは先輩ですよ」
「まぁ、そうなんだけどね」
先輩は苦笑を浮かべると私の頭に手を乗せ、何度か撫でるように動かした。
「でもこんなに髪を乱してまで急がなくてもいいんじゃない?」
「えっ」
急いでいたせいで、すっかり失念していた。髪を直そうと慌てて頭に手をやる私を見て、先輩は、もう直したよ、と笑った。
(……もう、最悪…)
こんな情けないところを見られて、挙げ句直されて。
落ち込んでいて、でも先輩が来てくれて上がったテンションが、また急降下した。
「…そういえばさ」
落ち込みすぎて視線も一緒に落ちていた私は、先輩の呼びかけに顔をあげた。
「先月、僕の鞄の中にこれが入ってたんだよね」
なんでもない世間話をするような先輩の掌に乗っていたものを見て、ギクリとした。
何の柄もない、地味なピンクのラッピングに包まれて赤いリボンが巻かれた、沖田先輩の掌より少し小さな箱。
変な汗が背中を流れた気がした。
「名前も無くて、誰からかもわからなくてさ」
「そ…そう、ですか…」
「送り主のヒントになりそうな物もなかったし」
「へ、へぇ…」
「物も物だし、顔と名前くらいは知っておきたいんだけど」
いつもの調子で朗々と話す先輩の顔を見ることができなかった。
だからといって、私の目線の高さにあるそのピンクの箱を見ることもできなくて。
私は必死に笑顔を作ってさりげなく視線を逸らした。
鞄を持つ手に汗が滲んできたのは気のせいじゃない。
「ねえ、千鶴ちゃん」
「は、はい。何でしょう!」
「千鶴ちゃんは知らない、この送り主」
「さ、さあ?先輩が知らないのに、私が知っているわけないじゃないですか」
「でもさ、鞄の中に入ってたんだ、コレ」
「…みたいですね。さっき先輩から聞きました」
「そうだね。でもね、どうやら部活中に入れられていたらくてさ。その時間なら、僕たちより千鶴ちゃんの方が気づけるんじゃないかな、と思ってさ」
部活でずっと道場にいた先輩より、マネージャーとして道場を出入りしていた私の方が、不審な動きをしている人物を発見できるんじゃないか…先輩が言いたいのはこういうことらしい。
…なんだか話が嫌な方向へ向かっているような気がする。
ここで認めたら、いったいどうなるんだろう。
楽になれる?
それとも…。
浮かぶのは正反対の結果。
だから私には肯定できなくて。
「私は特に誰も…。でもバレンタインデーだったから、他校の女子が内緒で侵入でもしたんじゃないんですか?」
それなりの警備がある敷地内に他校生が入って来れるんだろうか、なんて疑問はこの時の私には浮かばなかった。
それから何とはなしに見上げた先輩の顔。
今まで何度となく見てきたその表情に、私は無意識に後退りをしようとした。
でもそこで見逃してくれる人じゃないことは、この一年で嫌というほど知っている。
先輩は箱を持っていない手で私の手首を掴むと、さっきの嫌な予感が確定に変わる笑みを浮かべた。
「あれ。僕、バレンタインデーに貰ったなんて言ったっけ?」
目の前の先輩がにっこりと、一見爽やかそうに笑う。
「…え」
バレンタインデーって…言って……
『先月、僕の鞄の中にこれが入ってたんだよね』
…なかった。
。