内緒の小部屋

□サンプル
1ページ/1ページ


午後七時がタイムリミット。
自宅であるマンションへ急いで走りながら腕時計を見れば、時計の針は七時になる十分前を指している。
普通のOLであればまだ帰宅を急ぐ時間ではない。
ましてや一人暮らしの身。門限や行動を縛る人間もいなければ、最悪帰る必要だってない。
しかし最近猫を飼い始めた千鶴はできるだけ早い帰宅を心がけていた。
ずっとペットを飼う生活に憧れていたため、今までの自分の生活スタイルより猫中心の生活になってしまうのは致し方ないことだ、というのが千鶴の言い分だ。
初めて飼った猫が可愛いというのもある。初めて見たり聞いたり、感じたりすること全てが新鮮で楽しくて仕方がない。苦労することも多いけれど…というかどちらかというと苦労の方が多いけれど、それでも。
念願かなって飼えるようになった猫は可愛い。しかしそれだけでは済まないのが彼なのだ。
とにかく好奇心旺盛であまり大人しくしていてくれない。いつもその好奇心ゆえの暴走に千鶴は巻き込まれ、振り回され、落ち着いてくれるよう宥めてどっと疲れる。毎日がその繰り返し。
でも「ごめんね」とすり寄ってくる、あの瞬間がとてつもなく可愛いくて、つい許してしまう。
そしてかなり独占欲が強いんだと思う。何かと千鶴を自分のそばに引き留めたがる。毎朝出勤時間にはちょっとした足止めがあって、そのせいで毎日電車に遅れそうになるくらいに。
それからもっと困るのが重度のイタズラ好きな性格。隙あらば千鶴にちょっかいを出してくる。
甘えてきたのかと思って油断していると、とんでもない目に合うのも日常茶飯事。
一番厄介なのが、千鶴の帰宅が少しでも遅くなると拗ねて自分の殻に閉じこもってしまうこと。一度そうなってしまうと、復活させるのは飼い主の千鶴にも難しい。
今のところお菓子を与えるのが一番手っとり早い方法だと学んだけれど、いつもそんなことをしていてはいつか病気になってしまうかもしれない。それに拗ねればお菓子がもらえる、と変に学習してしまうのも困りものだ。
そんな彼が自分がいない間に何をしているのか心配なのだ。
まだ猫を拾って半月も経っていない千鶴には覚えなくてはいけないこと、準備しなくてはいけないものがたくさんあって、たとえ定時に仕事を終えても圧倒的に時間が足りない。今日も頑張ってなんとか定時に帰ることができたが、猫に着せるための服を選んでいたら思いの外時間がかかってしまい、こんなに遅くなってしまった。
本当はスーパーで食材を買って帰りたかった。本屋に寄って猫の飼いかたや躾の本などを探したかった。
したいことは他にもあったけれど、そんなことをしていたら『帰宅時間が遅くなる=猫が拗ねる』の方程式の完成だ。それを考えれば選択肢は帰宅しか考えられなかった。

ようやくマンションのエントランスに着いて再び時計を見れば、あと五分で七時になるところ。
(今日も間に合った…)
千鶴は乱れた呼吸を整えるため一度大きく息を吐くとエレベーターの登りボタンを押した。そのとき目に入った手に提げられた袋の中には買ったばかりの服が2着入れられている。
時間に間に合って安心したら、もう一つの不安要素が頭をよぎる。
「…似合うかな?」
はっきり言ってコーディネートのセンスなど皆無といっていいほどセンスがない。おかげで自分が身につける服はいつもどこか似たり寄ったりなものばかり。
自分の服ですらままならないのに、他人のものをコーディネートするなんて相手に悪いし可哀想すぎる。しかも相手は男。女物とは色も形も違いすぎて、購入する際に着用したときのイメージをするのが難しい。
着用する本人がいればいいのだが、諸事情があってそれも難しい。ゆえに千鶴が頭を悩ませて買ってくるしかないのだ。
今までも何着か買ってみたけれど、そのどれもが一応気に入ってもらえているようではあった。ただかっちりとしたものがあまり好きではないのか、その中でもラフなものを好んでいるように見えた。それをふまえた上で今日は弛めの服を買ってきてみたけれど…。
「……気に入ってくれるかな?」
飼い主がペットに向けるにはおよそ似つかわしくないセリフを残して、千鶴は到着したエレベーターに乗り込んだ。

いつも彼は一人で何をしているんだろう。
ここ数日は千鶴が唯一毎回購入している女性ファッション誌で遊んでいたようだった。幸い破かれたり、部屋を汚されるわけでもないため好きにさせているが、さて今日はどうなっているのか。
最低限の躾はしたつもりだ。しかしそれを守るかどうかは彼の心一つでどうとでもなってしまう。
そのため千鶴にできることは部屋が荒らされていないか心配をして、できるだけ早く帰宅をし、部屋を見て心配が杞憂だったと胸をなで下ろすことだけ。今のところそんな毎日が続いている。
なんだかどちらが主かわからない関係のように見えなくもないが、それでも千鶴はその存在に救われたのだ。
だから我が儘でも人一倍嫉妬深くても、もう手放すことなんて考えられなかった。独りの生活にはもう戻れそうにないから。
到着したエレベーターが小さく揺れ、その扉を開くと、千鶴は自分の部屋へ早足で歩き始めた。


「ただいまっ!」
玄関の扉を勢いよく開けて、帰宅の言葉を口にする。
今までも当たり前にしてきたことだったが、就職を期にずっと一人暮らしをしているためその声に『おかえり』を返してくれる人は久しくいなかった。それが寂しくて言わなくなったときもあったけれど、物心がついた頃からの習慣を止めると逆に寂しさが増し、虚しさが募るだけだった。なので誰も返してくれないとわかっていても『行ってきます』と『ただいま』だけは言っていた。その後の虚しさはいつまでたっても慣れなかったけれど。
でも今は違う。
「千鶴ちゃん、おかえり〜」
急いで短い廊下兼キッチンを抜けて部屋に入ると、声の主にぎゅっと抱きしめられる。
「きゃあ!やっ、沖田さっ、離して!」
「ダメ〜」
「なっ!?どうして…いつも、こう…っ」
意外とたくましい胸板に頬を押しつけられ、慌ててそれを押し返そうにも力の差は歴然で敵うはずもない。じたばたともがく千鶴をよそに、当の本人は抱きしめる腕にいっそう力を入れ、頭に頬を擦り寄せた。
抱きしめられるだけならまだいい。相手はあくまで猫だ。そんなことで目くじらをたてるほど千鶴も心が狭いわけでも、子供でもない…つもりだ。しかし、大人しくしていられないのはどうしても慣れない沖田の行動のせい。
沖田は千鶴を抱きしめると必ず頬を摺り寄せてくる。それが千鶴にはたまらなく恥ずかしい。






[戻る]
[TOPへ]

[しおり]






カスタマイズ