内緒の小部屋
□It rained cats and dogs
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あの日―――
あの雨の日の夜、千鶴は捨てられていた一匹の猫を拾った。
雨に濡れた猫は本来の姿からは程遠く、濡れそぼった身体を小さく震わせてそこにいた。たった一匹で、なのに一言も鳴こうとせずにただじっとそこにいただけだった。
すべてを諦めているような目が、そのみすぼらしい姿が。惨めな自分の姿と重なって気づいたら声をかけていた。
「あなたも捨てられたの?」
我ながら間抜けなことを聞いたと思う。
こんな道端で、箱のなかに猫が置き去りにされているこの状況。どう見たって捨て猫なのに。
伸ばした千鶴の手を見てびくりと震えた身体は細くて、小さくて。怖がらせないようゆっくりと撫でると雨のせいで冷たくなった体温を手のひらに感じた。このままここにいたらすぐに生命の危機が訪れるであろうことは明白だった。
「うちに来る?」
私なんかが飼い主じゃこの子が可哀想かもしれない。
物事を器用にこなせない私に、そんな資格はないのかもしれない。
でも…
「ニャー」
まるで答えるように鳴いたその声に、不覚にも泣きそうになってしまった。
何かに縋りたかった。
誰かに慰めてほしかった。
自分じゃなきゃ駄目なんだと思える存在がほしかった。
…そんな自分勝手な理由だった。
「そっか。じゃあ私のうちにおいで」
私になんて拾われることを望んでいないかもしれないけど…。
さっきの鳴き声を合意の言葉と一方的に受け取って、千鶴はその猫を自分の家へと連れて帰った。
ペット飼育可のマンションに住んでいてよかった。誰に見咎められずにこの子を飼える。
でもこの時の千鶴は猫を飼うには無知すぎた。
だから猫は水が苦手なこと、人間が飲む牛乳を与えてはいけないことなんて知らなかった。
思い返せば、風邪をひくかもしれないからと一緒にお風呂に入ったとき、猫はずっと固まったままだった。
暴れたりしなかったから気付かなかったけど、後から聞いた話によればそうとう我慢していたらしい。
タオルドライしてあげた猫の毛並みは、血統書付きだと言われてもおかしくないほど艶やかで滑らかで。きっとこれがこの猫本来の姿なんだろう。雨に濡れていたときとは大違いだ。
そして千鶴の心を奪ったのはその瞳。
光の角度によって翠緑色に見せる瞳は、じっと千鶴を見つめたまま、一度も逸らしたりしない。
毛並みとのコントラストについ見とれてしまった千鶴を黙って見返していた。
どれくらい見つめ合っていたのか。
自然と手が伸びた。
まだ小さな身体を被う毛並みを撫でてみるとふわふわつやつやで。
「ふわふわ。気持ちいい」
知らず笑みがこぼれた。
あんなことがあっても笑えるんだと少し驚いた。
「そうだ。名前、決めなきゃね。何がいい?」
独り暮らしは独り言が増えるというのは本当かもしれない。人間の言葉が話せない、内容も理解できているかわからない猫相手にこんなことを聞いても、答えなんて返ってくるはずないのに。
「ニャー」
でも猫は千鶴の言葉に返事をするみたいなタイミングで鳴くから。つい意思の疎通ができているのかもしれない、なんて思い込みをしてしまう。
そう考えるとなんだか楽しくなってきて。
「う〜ん……じゃあ、沖田総司。どう?」
ついまた質問するように話しかける千鶴に、今度は若干テンション下がり気味の「ニャー…」が返ってくる。
「猫なのに変かな?」
嫌だった?
気に入らなかった?
もしかしたら『タマ』みたいに普通の名前がよかった?
でもね、この子に普通の名前は似合わないなって思ったの。
だからって深く考えたわけじゃないけど、なんとなく浮かんだ名前をプレゼントした。
「猫だけど、いっか。私は千鶴っていうの。雪村千鶴。よろしくね、小さな同居人さん」
猫は―――もとい、沖田は全然動き回ろうとしないで、おとなしくお座りをしてじっと千鶴を見ていた。唯一動いているのはゆらゆらと揺れる尻尾だけ。
動物…特に猫は好奇心旺盛なイメージがあったけれどそれは千鶴の勘違いだったのか。
(それともまだ警戒されてる?)
これから一緒に暮らすのにそれでは悲しかったから、コミュニケーションをとるついでに家の中の案内もどきをしてみることにした。
「ここが玄関で、お風呂、トイレに私の部屋。覚えた?」
…トイレはいらなかったかな?
案内といってもたったこれだけの、千鶴たった一人の小さな城。でも今日からは違う。猫とはいえ立派な同居人もできた。
沖田は抱き上げた千鶴の腕の中でじっと案内された方を見てとても大人しかった。まるで千鶴の言葉を一つ一つ理解し、記憶しているよう。
(…大人しい猫だなぁ。もっと暴れたりするのかと思ってた)
性格なのか、それともやはり距離を置かれているのか。前者なら仕方がないが、後者ならかなり悲しい。
なので千鶴はその距離を埋めるためにもう一つ、プレゼントを送ることにした。
「うん、よく似合ってるよ」
首輪代わりに巻かれた、緑色のリボンが沖田の首を彩る。
茶色の毛並みに緑色はどうかなと思ったけれど、時々瞳が翠緑色に見えるからそれと合わせてみたいと思った。そうしたら予想どおり。緑色がいいアクセントになって毛並みも映え、贔屓目なんてなくてもとても可愛い。
千鶴が使ったものをあげたからか、沖田はしきりに匂いをかいだり、リボンが邪魔なのか後ろ足で首のまわりを掻いてみたり。
さっきまで大人しかったのが嘘のように忙しなくちょこちょこと動き続けた。
(か…可愛い)
その仕草の一つ一つが千鶴には新鮮で物珍しくて。でもとてつもなく可愛い。
このままずっと見ていたかったけれど、明日も仕事がある。行きたくない、というより会いたくない、という気持ちのほうが大きいけれど、そんな我が儘が通用しないのが社会人だ。
それに沖田を飼うために揃えなくてはいけないものがあるだろうし、そのためにも少しでも稼がなくてはいけない。
「沖田さん、もう寝る時間ですよ」
「フニ゛ャッ!?」
まだ床にお座りしたままリボンと格闘している沖田を抱き上げてベッドへ移動したが、さてどうしよう。
猫はどこに寝せればいいのだろうか?
まさか一緒に寝て抱き枕代わりにするわけにもいかない。部屋の片隅に暫定的に寝床をつくってもいいかもしれないが、沖田がこの部屋にきた今日くらいはそばにいたい。
千鶴は少し悩むと枕元にバスタオルを敷いてそこを沖田の仮の寝床に決めた。
「今日はここで我慢してくださいね」
仮の寝床にそっと降ろしても、ここでもやはり沖田は大人しかった。
嫌がる素振りを欠片も見せずにバスタオルの上に丸くなり、そして千鶴を観察するようにじっと見つめていた。
やはりまだ警戒されているのだろうか。
でも身体を撫でてもされるがまま、抵抗もしない。
抵抗しないということは、きっと嫌ではないんだろうと勝手に解釈して、千鶴は飽きることなく沖田の身体を撫で続けた。
…なんだか落ち着く。
じっと見つめられることも、手のひらに触れる温度と、毛皮越しに感じる早い鼓動と。そして
「…綺麗な瞳……」
部屋の灯りを落としたのにハッキリと見てとれる、翠緑色の瞳。灯りがついているときより鮮やかかもしれない。
沖田の瞳に魅いられていて疎かになっていた手に感じる、ザラリとした感触。見れば沖田がペロペロと千鶴の手を舐めていた。
「ふふっ、くすぐったい」
くすぐったさと、もしかしたらほんの少し沖田との距離が縮まったのかもしれない嬉しさから、つい笑みが浮かぶ。
慣れない仕事で精神的にも肉体的にも苦しい日が続いて、ようやく独り暮らしに慣れて。そして泣きたいくらい悲しいことと、それを忘れてしまうくらい嬉しいことが起きた今日。
ペットとはいえ、新しい家族(同居人)ができて、これから始まる新しい生活に胸が踊るのを押さえることができない。
「明日、帰りに色々買ってこなきゃね」
ご飯に、ご飯を入れる器に、猫用トイレと砂。
あと何が必要かな?
気付けばまた猫に話しかけるように独り言を口にしていた。
きっと明日から賑やかになる。今まで自分一人しかいなかった。あまり気にしないように心がけていたが、ずっと寂しかった。ずっと孤独だった。
だから…
千鶴はベッドに横になって、明日買わなければならないものを指折り数えているうちに、いつの間にか眠りについていた。
最近あまり眠れていなかったし、いろいろあって疲れていた。そしてすぐ傍にある温もりが今まで感じたことが無いほどの平穏を与えてくれたから。
眠りの淵に落ちる直前、頬にほんの少し違和感を感じた。
なんだろう?もしかしたら沖田がイタズラでもしているのだろうか?
もしそうなら叱らなくてはいけないんだろうか?
もっと甘えて
もっとわがままを言って
もっとずっと傍にいて
…もう私を一人にしないで
夢うつつで浮かんだ願い。
一方的なわがままに応えたのか、次の日の朝、目が覚めてみれば千鶴の隣で眠っていたのは拾ってきた猫ではなく、人の姿をした男―――沖田だった。
。