内緒の小部屋

□Secret Honey
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そこは校舎にあるとある一室。
利用する際の特性上、校舎のはずれのはずれに位置するそこにいるのは、一人の男性教師。

大量の紙に大量のバツと時折丸を書き込む作業を初めてゆうに一時間は過ぎただろうか。
おそらく減っているはずだがそうは見えない紙の山に辟易して伸びをしていると、扉からコンコン、と控えめなノック音が聞こえてきた。

「……一年の雪村です」

失礼します、と入室してきたのはこの学園でたった一人の女性生徒の雪村千鶴。

「課題のプリントをお持ちしました」
「ありがと〜。その辺に適当に置いておいて」
「はい」

手近な机に紙束を置いた千鶴はそのまま退室するのかと思いきや、その気配がいっこうにない。

「ほかにご用はありますか?」
「う〜ん…特にないけど…。あ、じゃあ給湯室で何か煎れてきて」
「はい、わかりました」

見なくてもわかる、いつも通りの丁寧なお辞儀をして、千鶴は入室してきた時と同じように静かに扉を閉める。そして少しずつ遠ざかっていく小さな足音。

部屋には再び静寂が広がり、紙に滑らせるペンの音だけが妙に響いた。




どれくらい経ったのか。千鶴が沖田専用のマグカップを手に戻ってきた頃には、今日の目標にしていたクラス分の答案用紙の採点が終わった後だった。

「遅くなってすみませんでした」

先ほどと違って今度はノックなしで部屋に入ってくる千鶴。
彼女が持ってきた課題のプリントを見ていた視線をそちらに向けることで入室を許可した。
そして側に置かれた甘い香りと湯気が漂う緑色のカップ。その様子を見れば煎れたてだとすぐにわかった。

「…たった一杯煎れてくるだけなのに、ずいぶん時間がかかるんだね」

まだ熱いそれに軽く息を吹きかけ啜ると、口内に広がる熱。ついでその熱を感じる食道、胃。
いつものお気に入りのココアのはずが、暖かさを感じても味がしない。

原因は分かっていた。しかしそれを口にするのは少々子供じみた感情だと自覚しているため、もう一度ココアを啜ることで何とかそれを押し留めた。

「ええ。ほかの先生方に捕まって、ちょっと…」
「…ふうん……」

礼儀正しい千鶴は生徒だけでなく、ほかの教師にも人気がある。それは見方によれば媚びを売っているようにも、試験前になれば袖の下のように見えなくもない。しかし清廉潔白な彼女の性格故か、そんな間違いは一度も起きていなかった。

千鶴の言葉に反応しかけ、しかしそれを顔には出さずまたカップに口を付ける。
ずず、っとココアを啜り手元のプリントに視線をやるも内容が一向に頭に入ってこない。せっかく糖分を補給しているというのに、効率はあがるどころか下がる一方だ。

その原因は後ろに立ったまま、出ていく気配もない。

「いつまでそこにいるの?試験の採点するから用事がないなら出ていって」
「誰と一緒にいたのか、お聞きにならないんですか?」

千鶴の勿体ぶった言い方にちらりとその方を見る。しかし真っ直ぐな瞳と目が合い、何となく気まずくなって視線をはずした。

「…別に。相手は教師でしょう?君が誰といても…」
「土方先生でも?」
「あの人と一緒にいたの!?」

精一杯平静を装った言葉を遮った名前には過剰な反応を見せた。
声を荒げ振り返る。しかし千鶴を詰問しようとした言葉は柔らかな感触に吸い込まれた。

―――柔らかな、甘い千鶴の唇。

予想もしなかった千鶴の行動に、身体と思考のいっさいの動きが止まる。

十秒か、二十秒か…それとももっと短い時間か、長い時間か。

呆然と見つめる先に広がる、閉じられた目蓋と長いまつげ。そこにはいつもまっすぐ自分を見つめる、黒目がちな瞳が隠されているのを知っている。

次にその姿を確認できたのは千鶴が唇を離して、目蓋を上げたとき。

「…沖田先生が悪いんですよ。せっかく二人きりなのに、全然こっちを見ようとしないから…」

寂しかったんですから、と千鶴はほんのりと染まる頬を膨らませ、沖田を攻める言葉を紡ぐ唇をとがらせた。
千鶴が時折見せる、年相応の仕草にようやく我に返り、沖田は大きなため息を吐いた。

「あ……のねぇ…。こういうことは学校ではしないで、って言ったのは、どこの誰?」
「…私です。けど、話さないどころか目も合わせないで、なんて言ってません」

ようやく動き出した思考と口で少し前の千鶴との約束を持ち出して責めてやれば、ぷくっと膨らませた頬とつり上げた眉に恨み言が返ってくる。

学校でも際限なく求めてくる沖田に耐えきれなくなり、千鶴は一切のスキンシップを禁止した。いつもだったらそんな約束なんて受け入れられるものではなかったが、ちょうどテスト期間がすぐそこということで、不承不承頷いたのだ。

どちらにしてもその期間は生徒との個人的な接触は禁止だ。職員室はおろか、各教科の準備室にも生徒は入れないため、千鶴と二人きりで会うことはほとんどできない。

それに沖田とて一応教師として雇われている身。千鶴の学業の邪魔はできない。
いくら自分勝手に振る舞う沖田でも、最低限度のラインはわきまえている。

まあ、それが終わればなし崩しに千鶴との約束を反故にするつもりだったが。
ただ試験が終わってもしばらくは採点とその傾向、それらをふまえた上での今後の授業計画があるため、予定では千鶴と会うのはもうしばらく先になるはずだった。
そしてまさか千鶴の方からやってくるとは思ってもいなかった。

沖田は千鶴の腰に腕を回すと、その細い身体を引き寄せた。

「自分からキスしちゃうくらい寂しかった?」

いつもなら「違う!」「からかわないで!」と言葉が返ってくる、千鶴曰く、恥ずかしい質問。

それに答える声はなく、代わりにもう一度唇が重なる。
何度も角度を変えて、時折ちゅっと音を響かせて触れては離れ、また触れる。
目を閉じてそれを受け止めている沖田の唇にぺろっと触れるなにかに、その意味を正確に読みとり閉じていた唇を少しだけ開いてみせる。
重なった唇からためらいがちに侵入してくる、いつもは甘い千鶴の舌は、なぜか今日は違った。

「……ぁ…」

屈むように唇をあわせていた細身の身体をぐい、と押せば、十分に絡むことなく離された千鶴の唇から小さく声が漏れる。
いつもならもっととろけるほどのキスに酔えるはずだったのに、どうして…と不満げに見つめる千鶴とは対照的に、沖田は眉を顰めた。

「……苦い」
「え?」
「千鶴のキス、苦い」

塗れた唇を白衣の袖で拭うと、まだ飲みかけだったココアを一気にあおった。






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