内緒の小部屋
□サンプル
1ページ/1ページ
痛みが消えて、違和感が消えて。気付かないうちに付けられていたキスマークも全て消えた。
身体から、あの日を思い出させるもの全てが綺麗に消えた。
なのに…あの日以来、千鶴はお気に入りの『あの場所』に行けずにいた。
消耗品。
それは一つなくなれば芋蔓式になくなるものである。
どうしてかは分からない。しかしなぜかそうなる。
トイレットペーパーにティッシュペーパー、シャンプー、リンスに食器用洗剤等々。メモしたものをカゴにいれ、次の物を探していく。
隣には物珍しそうにあちこちを見渡す猫…もとい。沖田が、男物の帽子を目深にかぶり、上下左右にと首を動かしている。
買い物の時、いつもなら留守番を言いつけていたが、今日はどうしても人手が足りないことが分かっていたので連れてきたのだ。もちろんきちんと説明した上で、お伺いをたてて。沖田は迷うことなく二つ返事で了承した。
(あとは…)
進む先にある、千鶴の必需品のコーナー。
千鶴はなるべく平素を心がけた。
「沖田さん、先にレジに行って待っていてもらえますか」
「え?でも荷物持ちなのに、先に行ったら意味ないんじゃないの?」
「そうなんですけど、まだちょっと時間がかかりそうなので、レジの前で待っていてください」
千鶴はなんとかいつもの笑みを浮かべ、顔色を伺うような沖田の視線に向き合った。
以前の沖田だったら即答しただろう。
―――イヤだ、と。
しかし今の沖田は違う。
「……うん、わかった」
若干の間の後、素直に頷くと、千鶴が教えた場所へと行いてしまう。両手にトイレットペーパーとティッシュペーパーを持って。
その後ろ姿は人間のそれなのに。
千鶴は沖田の後ろ姿をしばらく見つめ、最後に残しておいた物が並ぶ棚へと足を進めた。
沖田は変わった。
見た目も、声も、嫌いな物もそのままに、まるで他人のように変わってしまった。その原因が分かっている以上、変わってしまった、と言うのは語弊があるかもしれない。
その変化を決意させたのは―――千鶴自信。
何を思ってそうなってしまったのか、何がきっかけでそう決意するに至ったのか…。
知らないフリをするには大きすぎる出来事に、まだ時々振り回されるのに、沖田は何もなかったように振る舞う。しかし今のように、千鶴の言葉にはあっさり従うようになったから。
そのたび千鶴は思い出す。
『あの日』の出来事を―――。
**中略**
時計を見れば、少し早いが家を出る時間だ。千鶴はもう一度鞄の中身をチェックし、折りたたみ傘が入っていることを確認して立ち上がった。その後を追うように、沖田も立ち上がる。
「今日も、いつもと同じくらいの時間に帰ってきますから」
「うん。車とか変な人とかに気を付けてね」
ドアノブを捻り、さあ家を出ようか、という時にかけられた言葉に千鶴はぴたりと動きを止めた。
「…変な人、ってなんですか」
「え〜っと、なんだっけ…。痴漢とか、変質者とか言ったかな?千鶴ちゃん、ぼけっとしてそうだから、特に気を付けないと」
「言うほどぼけっとなんてしていません」
「じゃあちょっとはしているんでしょ。そういう中途半端に警戒している人間ほど狙われやすいんだから。なんていうか……そう!普段は警戒してるんだけど、ちょっと気が緩んだ瞬間がたまらなくいいんだよ!」
そんな内容を熱く語られても、正直さっぱり意味が分からない。しかも若干変な方向に話がズレていると感じるのは、気のせいじゃないはず。
「どうして沖田さんがそんなことを知っているんですか?」
「え?……あ〜…。どうして、かな。テレビで見たの、かも」
千鶴の疑問に、急に態度を変えた沖田は視線を泳がせた。これではまるで、身に覚えがあるから知っていると言っているようなものだ。
確信した瞬間だった。
「これからは気を付けます。…外でも、家でも!」
「えっ?ちょっと、違っ…」
「いってきます!」
千鶴は沖田の言葉を遮り、勢いよく玄関のドアを閉めた。エレベーターホールに向かって歩く背中に、いってらっしゃい、と心なしか打ちひしがれた声が聞こえたが、振り返らなかった。
テレビで見た、と言っていたが、あれは絶対実体験からくる言葉だ。妙に力説していたし、変に具体的だ。あんな風に思われていたなんて、これっぽっちも知らなかった。
(これからはもっと気を付けなきゃ!)
千鶴は昨晩の決意を、別の意味でもさらに固めた。
けれど沖田が何もしてこないのは事実。
今日は見なかったが、千鶴を見送るときの顔はいつも何か言いたげで、何かを堪えていて。それでも無理に笑おうとしているせいでちゃんと笑えていないことに、本人は気づいていないんだろうか。
エレベーターを待つ間、ふと気になって来た道を引き返した。と言っても、小さなエレベーターホールは、数歩も歩けば各部屋へと繋がる廊下へ出ることができる。
顔だけを廊下へ出して部屋がある方を見る。と、そこに見えたものに千鶴は驚き、その名前を口にしていた。
「…沖田さん?」
小さな声が聞こえたらしい沖田が勢いよく振り返り、千鶴以上に驚いた顔を向ける。そしてばつが悪そうに笑った。
千鶴は急いで顔を引っ込めると、ちょうど到着したエレベーターに乗り込み、一階のボタンを何度も連打した。
肩に掛けた鞄の取手をぎゅっと握りしめ、早く…早く…、と地上へと近づく箱の中で祈りながら、扉が開く瞬間を待った。
追いかけてくることはないだろう。今までそんなことをされなかった。
…でも。
エレベーターを降りて、小走りでマンションから出ると足を止め、今度は確信をもって振り返る。
そこにはさっき見たままの姿がある。フェンスに肘を預け、階下を見下ろす人影を見間違えることなんてない。
ここからは微細な表情の変化は分からない。笑っているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。
右手をあげ左右に振るのは『いってらっしゃい』の意味なのか。
ここで手を振り返すのが、当たり前なのかもしれない。しかし自分たちの今の関係では、親密な関係に見えるその行為はふさわしくない気がする。
「…いってきます」
だから千鶴は呟くように、しかし沖田に向かって言った。さっきは顔を見て、ちゃんと言えなかったから。でもこの距離ではきっと、聞こえないだろう。
そう思っていたのに。
『いってらっしゃい』
沖田の唇が、言葉をなぞるように動いた気がした。
千鶴は身体を前方へと向けなおし、駅へと歩き始めた。走り出したい衝動を抑え、いつもと同じ『千鶴』を装う。
今日が特別だったんだろうか。今まで振り返ったことなんてなかったから、真相は沖田しか知らない。
沖田が言ったのは、本当は違う言葉だったのかもしれない。もしかしたら、何も言っていなかったのかもしれない。でも、そう見えた。
もう一度振り返った先には、同じ姿がそこにあった。
・・・まだまだ続くよピューッ!≡≡≡ヘ(*゚∇゚)ノ