Short&Middle

□絡み上戸と忘れたいもの
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 誰か助けてくれ。
 その文章を、ヴァルカは多分人生で初めて脳裏に浮かべた。真っ白になった思考の中に、その文章だけが存在感を放って浮いている、というような感じだ。
 別に、エマヌエルを嫌い、という訳ではない。
 好きか嫌いかと問われれば、好きだと答えるだろう。だが、好きの種類が、恋愛に絡んだ『好き』ではない。『love』と『like』の違いという奴だ。
 いや、そもそも、そんなことを考えている場合ではない。どうする、どうする。
 思考が堂々巡りを起こすことも、今までに一度もなかった。
 どんな敵を前にしても、考えるより先に身体が反応するくらいには戦闘訓練を受けている。目の前の相手をどう攻略するかで悩んだことなど、モルモットとして研究所に拘束されていた時を除いてなかった。――今、この瞬間までは。
「ヴァルカ……」
「え、ちょ、ちょっとっ……」
 リアクションできずにいる内に抱き締められて、ヴァルカは益々動揺した。
 落ち着け、っていうか、これが落ち着いていられるか――っっ!!
 彼女の脳内で不毛な一人やり取りが繰り広げられていることなど、誰にも判らない。
 次に何が起きるか予測不能になると、人間思考が停止するものだと、思い知った気がする。
 訳も分からず、まるで断罪を待つような心持ちで固く目を閉じたが、空白は思いの外長く感じられた。
「――……?」
 掛かる重みが僅かに増して、そっと目を開けると、エマヌエルの身体が不意にずり落ちた。
「あ」
 まずい、倒れる。と思った瞬間には、身体の均衡が崩れた。
(嘘っ……!)
 赤子の時に遺伝子から改造され、身体能力に優れたヴァルカには珍しく、バランスを取り損なう。自分より相手の体重が重かろうが、普段なら難なく支えられるのに、一度バランスを失うと、空中で立て直すのは難しい。
 背中に受ける衝撃に身構えるが、いつまで経っても覚悟した痛みは訪れない。どころか、空中で、身体が停止している――?
「……あーぶね」
「ド、クター」
 エマヌエルの身体をその背後から支え、伸ばしたもう片方の手でヴァルカの肩を掴んでいたのは、ウィルヘルムだった。
 いつの間に移動していたのだろう。素人の筈の彼の動きを捉えられないことなど、今までなかった。
 それだけ、エマヌエルの思わぬ言動に、自覚するよりも動揺していた、ということだろう。
「もう放して平気か?」
「あ、……あ、うん。……あ、りがと」
 小さく礼を付け加えると、しっかりと自分の足に力を入れ直す。
 よっと、と小さく声を発するウィルヘルムに抱きかかえられたエマヌエルの顔を改めて注視すると、その瞼は既に閉じられていた。
「え、何、……もしかして、眠っちゃった、の?」
「そうらしいな。まあ、あれだけ一人で空けりゃあ……」
 それにしても、戦闘に長けたスィンセティックは、性質として兵士というよりも兵器に近い。
 これだけ至近距離で他人が喋る声が聞こえていて、眠り込んでいれば、命に関わることもあるのを、ヴァルカは嫌というほど知っている。エマヌエルも、そうである筈だ。
 こんな風に意識を投げ出して、大人しく他人に抱きかかえられるままになる彼は、以前に一度見たきりだ。仕事や戦闘で一緒に生活することがあっても、同時に眠って同時に起きるような感覚で、平時の寝顔など見たことはない。

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