箱庭恋歌

□序章; 暗転
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 所謂『黒船来航』以降幕府の権威は急降下。
 それに伴った世の中の混乱の火種は江戸から遠く離れたこの京の都にも飛び火していたらしい――否、寧ろ京の都こそが動乱の中心であると言う人間もいる。

 けれどそんな世情は、動乱の中心地である京都に住みながら、あたしにとっては早い話が『他人事』だった。

 ――そう、ほんの○・一秒前までは。




      




「――――破談!?」

 いつものように仕事帰りに訪ねてきた婚約者が唐突に放ったのはまさに爆弾発言だった。
「何よソレ、どーいう意味!? まさか、今更生まれ年の忌み事がどうとか言い出す気じゃないでしょーねッ!!」
 あたしは、乳人の藤が制止する声を頭から無視すると体が動くに任せて反射的に熾仁(たるひと)の胸ぐらに掴みかかった。
 三歳の時に『年替え』の儀を行って、今でこそ『乙巳(きのとみ)』生まれっていう事になってるけど、本来のあたしの生まれ年は『丙午(ひのえうま)』。『丙午の女は夫を喰い殺す』なんて言う馬鹿馬鹿しいとしか言いようのない言い伝えの所為で結婚出来なかったら可哀想だ、という周囲の心配から『年替え』の儀が行われ、それでも安心できなかった周囲の配慮から五歳の時に将来の伴侶として引き合わされたのが当時十七歳の有栖川宮家の親王・熾仁だった。
 十七歳で当時五歳の幼女と婚約させられた熾仁の心中は察して余りあるけれど、それでも互いに好意を持って愛を育んできたという自負はある。……ていうか、そう思ってたのはあたしだけだという事だろうか。それにしたって、婚儀寸前のこの仕打ちはあんまりじゃないのかしら。
「それとも何? 十二歳も年下の女との結婚なんてやっぱりイヤだった訳? だったら、何も婚儀寸前に破談なんて嫌らしい真似しなくたって――」
「お、落ち着けよ! まだはっきり破談(そう)と決まった訳じゃないし……」
 慌てたような熾仁の弁明に、沸騰していたあたしの頭は一瞬にして冷めた。冷めると同時に手は熾仁の胸ぐらから離れて落ちる。
 そう言われれば、熾仁は『破談になるかも知れない』と言っただけで『破談になった』と断定はしていなかった気がする。
「……でも、そう言う話が出てるって事よね……お式は今年の冬なのに何で今更……」
 半ば独白のようなあたしの呟きに、熾仁はモゴモゴと口ごもっている。
「いや……それが縁談が持ち掛けられてるらしいって話なんだけど……」
 言い辛そうに呟き返されて、あたしの脳内の温度は冷めた時と同じ速度で急上昇した。
「縁談――――!? 相手はドコの誰よっっ!? 熾仁! あんたあたしっていう婚約者がありながら……ッ! 仮にも今上帝(きんじょうてい=時の天皇)の妹であるあたしを袖にしようってンだからそれなりの家の子女なんでしょうねっっ!!」
 半泣きになって叫びながら一度は離した熾仁の胸ぐらをひっ掴み直してガクンガクンと揺さぶる。
「所詮あんたもそこらの貴族と同じよ! 喰い殺されるのが怖いんだわ!!」 
「だから、落ち付けってば!! 仮に破談になるとしても決めるのは私じゃないしそれに……っ」
「……縁談があらしゃるのは宮さんの方や」
 揺さぶられながら必死に反論を試みる熾仁の台詞の後半を引き取ったのは、よく知った、熾仁とは別の人の声だ。
「……実麗(さねあきら)伯父様……?」
 振り返った視線の先に立っていたのは、母方の伯父・橋本実麗その人だった。










「――和宮さんご降嫁の話が具体的に動き出したんは今年の頭かららしいんやけどな」
 熾仁も入ってきた室内に腰を下ろした実麗伯父様は、藤が出してくれたお茶に手を付ける事なく、どっと疲れたような口振りで手にした勺を口元に当てた。
「そもそも公武一和の為に公方さんと天皇家の姫宮さんとを娶せるいう話が出た時は、何も和宮さんをいう話やなかった筈なんや」
 伯父様の話によると、『公武一和』というのは『公武合体』とも呼ばれている幕府の政策の事だそうだ。その名の通り、公と武、つまり天皇家と将軍家を一緒にする事によって天皇家の威光を借り、失墜した権威を何とか持ち直そうというのが幕府側の思惑らしい。

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