箱庭恋歌
□第五章; 近付く別離
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結婚から一年と少しして、家茂は異母兄様の攘夷実施の求めに応じて三代将軍以来約二百二十九年振りとやらの上洛を果たし、異母兄様に攘夷の約束をして来たらしい。
家茂は帰って来るなり渋い顔をして『出来もしない事をやらせようとするな』などとグチをこぼしていた。
「仕方ないでしょ。それが、あたしが降嫁する為の必須条件の一つなんだから」
声量を落として家茂を窘めると、家茂は「知るか」と吐き捨てた。
「側近共が勝手にやらかした政策のおかげでこっちはいい迷惑だ」
「あー、それ激しく同感……」
あたしと家茂は顔を見合わせて、殆ど同時に深い溜息を吐いた。
元々、あたしも家茂も婚約者(家茂の場合恋人)がいたのにも関わらず無理矢理その婚約を破談にさせられて政略結婚させられたという共通点がある。家茂に至っては、あたしとの結婚の為に恋人を側近に殺されたんだから、いい迷惑を通り越してる。
初めはお互い元の相手への未練タラタラで中々打ち解けられなかったんだけど、家茂の一歩大人な対応で家茂の人柄を知るにつれて、あたしも徐々に家茂に惹かれていった。
それを認めるには一種の罪悪感……はっきり言っちゃえば熾仁への後ろめたさを乗り越えなければならなかったし、正直言ってかなり抵抗があった。
けれど、自分の気持ちに素直になったら、精神的負担は随分軽くなった。
ただでさえ、周囲との所謂文化の違いから来るすれ違いというか軋轢から、あたしにとって大奥は住み辛い場所だ。
せめて、生涯の伴侶である家茂だけでも味方でいてくれなければやってられない。
「あ、そうだ。親(ちか)、手出せよ」
家茂が唐突に思い出したという素振りで、懐に手を突っ込みながらニヤリと口の端を上げた。
最近、二人きりの時は、家茂はあたしをいみなの『親子(ちかこ)』を更に短くした愛称で呼ぶ。あたしがそう呼んでくれと頼んだのだ。
流石に公衆の面前では仮にも皇女様をいみなで呼んだりしたら異母兄様にはり倒される、と家茂が半ば本気で脅えるので、二人きりの時限定だけど。
「? 何?」
「土産だよ。京土産じゃなくて悪いけど」
疲れてる時はこれがいい、なんて言いながら家茂が懐から取り出した紙包みから出て来たのは、金平糖だった。
「また甘いもの? あんまり食べると太るよ?」
「嫌いか?」
「……好きだけど」
「だろ? お互い家臣に恵まれないんだから憂さ晴らし」
悪戯っぽく片目を瞑って見せる家茂に、あたしは小さく吹き出しながら家茂が差し出す金平糖を摘んだ。
結婚後、暫くしてから知ったのだけど、家茂は実はかなりの甘党なのだ。金平糖の他にも、羊羹、氷砂糖、懐中もなか、家茂の好きな菓子類は挙げていけばキリがない。かすていらなんかは先代様に倣って自分で作ったりしてるらしい。
昼間あたしを訪ねて来てくれる時、割合にして三度に一度はお菓子を手にしている。
あまりにも甘味を手にしている事がしょっちゅうのように思えるので、気になる時は今みたいに注意するのだけど、家茂は耳を貸さない。
尤も、あたしもさして真剣には考えていなかった。後で死ぬ程悔やむ事になるのだけど、家茂本人は勿論、あたしもこの時点では知る由もない。
「失礼致します。上様、そろそろ表へお戻り下さいませ」
数ヶ月振りに会った家茂と取り留めのない話をしているところへお邪魔虫――基、大奥総取締の滝山が割って入った。
家茂は、分かった、と言うとあたしに向き直った。耳元で「じゃあ、今夜な」とぼそっと囁くと林檎に負けないくらい顔を赤くしたあたしを残して飄々と去って行く。
後に残った滝山が、これ以上ないくらい頬を染めているであろうあたしを見て一瞬不思議そうな顔をしたけれど、彼女はすぐにいつもの無表情に戻った。