箱庭恋歌

□第六章; 薨去、そして
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 その日も暑かった。

 慶応二(1866)年九月六日。

 あたしは、懸命に廊下を走っていた。
 視線の先にお女中達が集まっているのが見える。
 一人があたしに気付けば、皆が頭を下げてあたしに道を譲った。

 部屋の中に、家茂はいた。
 けれど、あたしにはもう直接に家茂の姿を確かめる術はなかった。
 視線の先にあるのは、家茂が納められている筈の『棺』。
 家茂が『亡くなった』のは二ヶ月程前の事だから、開けたところで彼だと認識できるかどうかは判らなかった。

 足が萎えてその場にヘたり込みそうになるのを何とか堪えながら、あたしはふらりと棺へ向かって足を踏み出す。

「――――宮様」

 声のした方へ視線を向けると、女中の一人が反物を一反捧げ持って控えていた。
「上様が上洛後すぐにお求めになられました西陣織でございます。上様より宮様へと――……」
 上洛後すぐ?
 ……全くあの人、何考えてるんだろう。
 戦に出掛けて真っ先に妻へのお土産、買う? 普通。
 泣き笑いのように顔が歪んでいるのを自覚しながら、でも何を言う事も出来ずに、あたしは家茂からのお土産をただそっと受け取った。
 改めて棺に視線を戻して、萎えそうになる足を一歩一歩踏み出し続ける。
 大した距離ではない筈なのに、棺まではひどく遠いような気がした。
 震える手で棺に触れてみるけど、ただ堅い木の感触が伝わるばかりで、本当に中で家茂が眠っているのかどうかは判らない。

「……少しだけ……二人きりにしてくれる?」

 何かがつかえるような喉の奥から絞り出した声は、思ったよりも低くてみっともない程掠れていたから、それがその場にいた人間全てに聞こえたかどうかは判らなかった。
 けれど、全員がまるで合唱するかのように「宮様!?」と呼んだところを見ると聞こえているのだろう。
 何か問題でもあるのだろうか、などと考える事もなく、あたしはただひたすらに切ない願いを口にし続ける。
「お願い。少しの間でいいから」
 ただ、久しぶりに会う夫と水入らずに過ごしたいだけよ。
 何がいけないの?

 しかし、戸惑うようにざわめいている女中達も、あたしと共にこの部屋へ来た京都から従いて来てくれた乳人の藤が真っ先に黙って頭を下げて出て行ったのを皮切りに、一人、また一人と次々に頭を下げて退出して行った。

 棺とあたしだけが取り残された室内は、しんと静まり返った。

「……お帰りなさい、家茂」

 しっかりと封印のされた棺に向かって話しかけるけど、返事なんてない。

「……ひどいよ、家茂……」

 無事に帰って来てって言ったのに。
 どうしてこんなものに入ってるの。どうして、返事をしてくれないの?
 西陣織だけしっかり届けて、これで機嫌でも取ったつもりなの?
 ――思い切り罵倒してやりたいのに、こみ上げる涙と嗚咽に遮られて、もう言葉なんて出ない。
「こんなものだけあったって、ちっとも嬉しくない……っっ!!」
 棺に縋り付くようにしてあたしはその場に崩れる。
「あんたが見てくれなきゃ、着飾ったって意味ないじゃない……っ」
 後はもう慟哭するしかなかった。

 最後の口吻け。

 離れていく指先に感じたあの胸騒ぎを。

(信じればよかった)

 こうなると知っていたら。

 こんな結末が待っていると判っていたら、政治がどうなろうと世の中がどうなろうと知った事じゃない。絶対に、何が何でも行かせなかったのに。

 誰か返して。

 あたしに家茂を返してよ。

 生きたままの彼を、お願いだから、誰か誰か――――。








 更にその慶応二年の末、異母兄様――考明帝までもが世を去った。
 異母兄様の死に関しては、不審な点がいくつかあるらしくて、世の中ではかなり長い事毒殺説がまことしやかに囁かれていた。

 公武合体政策の要であった家茂と、異母兄様の死によって、幕府と朝廷の間で辛うじて取れていた均衡はあっさりと崩壊。

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