箱庭恋歌

□終章; 旅立ち
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 明治十年九月。

 脚気を患ったあたしは、箱根に療養に来ていた。



(いーい天気……)


 ぼんやりと宿の庭を散策しながら、あたしは何気なく空を見上げた。

 江戸に輿入れして来た時も、渡り廊下から丁度同じような青い空が覗いていたっけ。
 あの時と違うのは、今のあたしは籠の中の鳥ではない、という事と、隣に――家茂がいない事。
 閉じこめられた大奥の自室前の濡れ縁から見上げた空もやっぱり同じように青くて、でも隣にはいつも家茂がいたのに。

 そんな事を思いながら、ふと庭へ戻した視線の先にいたのは、意外な人物だった。

 意外って言うよりはそう――有り得ない。ここに――否、この世にいる筈のない人。

「……家……っ」

 口から出掛けた言葉は音にならなかった。

 その男性は、ただふわりと微笑ってあたしに向かって手を差し伸べる。――生前と変わらない、あの笑顔で。

 雲を踏むような、とは正にこういう時に使うんだと、あたしは思った。
 けれど、身が軽い。

 何もかも、脱ぎ捨てたような身軽さを覚えながら、あたしは迷う事なく家茂の元へ走った。



                    
(fin)



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