箱庭恋歌

□第一幕 降り懸かった理不尽
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 ある意味、予想通りの返答にあたしはホッと胸をなで下ろしかけた。……が。
「しかし、これで果たして幕府が引き下がるかどうか……やな」
 一縷(いちる)の望みをあっさりくつがえすような台詞が続いて、上昇しかけた気分は元通り地に墜ちた。
 発言した伯父様は勿論、おたあ様、熾仁、ついでにその場に一緒にいた乳人の藤の表情も一様に重い。多分、あたしも似たような顔をしているんだろう。
「――大丈夫……」
 まるで、江戸から迫り来るかのような暗雲を払いのけたい一心で、あたしは無意識に言葉を絞り出していた。
「だって、異母兄様がお断りになったんだもの。幕府だって従わない訳にはいかない筈よね……」
 呟くように室内に落ちたあたしの言葉に同意してくれる人はいなかった。
 そうであって欲しいと願う気持ちは、きっと、その場にいた誰もが思っていたことだったと思う。
 一抹の不安を振り切るように、あたしは自分に言い聞かせていた。
 異母兄様が同意しなければ、幕府だって無理強いは出来ない筈。絶対に大丈夫だ、と。

 けれど、それが本当に、喩(たと)えるなら、突如雷と共に襲いかかって来た大嵐の海中で、藁に縋るような甘い考えだったと思い知らされたのは、『破談(そんな)話もあったなぁ』なんてたまに思い出す程度に時が経った頃だった。

 ***

 天皇家の威を借りて何とか権威回復したい幕府は、こっちが思う以上に必死だったらしい。
 初めて破談の話を聞かされた日以上に、心なしか青い顔をした熾仁が、『その報(しら)せ』を持ってきたのは、深刻な話題とは思い切り不釣り合いな、青空の広がる昼下がりだった。

「……正式に、破談……?」
 たった今熾仁に告げられた、信じられないような言葉を、あたしの唇が勝手に反芻(はんすう)する。
 文章の意味が、うまく頭に入って来ない。
 しかし、話の内容を理解することを思い切り拒否する頭とは裏腹に、あたしの身体は反射的に動いて、熾仁の胸倉を掴んでいた。――まるで、あの日と同じように。
「正式に破談って……この短期間で何をどーしたら破談なんて話になる訳っっ!?」
 熾仁は、数瞬苦しげに顔を歪めると目を伏せた。
「――……先刻……正式に主上から婚約解消の沙汰を受けた……今頃は宰相中将(さいしょうのちゅうじょう)殿……君の伯父上殿も、同じ内容のお沙汰を主上から拝聴している筈だ。じきに桂御所(こちら)へもそれを報せにいらっしゃるだろう」
「…………」
 あたしは、咄嗟(とっさ)に言葉を返すことが出来なかった。
 頭の中が真っ白になってる。何を言えばいいのか判らない。
「……あたしは……そんなコト訊いてるんじゃないわよ」
 無意識に絞り出した声は、自分が思っていたよりずっと低かった。
 熾仁の胸元を掴んだままの手が、みっともない程震えてる。
「……熾仁は、平気なの……? あたしが……っ他の男に嫁(とつ)いでも……」
 鼻の奥が絞られるように痛んだ。
 俯いた視界が否応なく歪む。
「何も感じてくれないのね……!!」
 瞬間、勢いよく跳ね上げた視界が何かに塞がれる。
 今まで見たこともないくらい、熾仁の顔が間近にあった。それ以上何も言うことが出来なくて、ようやく唇が熾仁のそれで塞がれていることに気付く。
 熾仁の唇が離れるまでの時間は、随分長かったようでもあり、それでいてほんの瞬きする間だったような気もした。
 長い永い一瞬の後、熾仁の唇は温もりだけを残してゆっくりと離れていく。
「……熾……」
「……イヤだと喚いてどうにかなるものなら……」
 聞いた事もないくらい低い声が耳元を掠めた。
「いくらでもそうするのにな……」
 涙で霞んだ視界の中で、未練を振り切る様に立ち上がった熾仁の背中が遠ざかって行く。熾仁の着物に焚きしめられた香(こう)の残り香(が)だけが、暫く尾を引くように漂(ただよ)っていた。
 唇に触れる。
 初めての――そして、愛する人との最期かも知れない口吻(くちづ)けは、甘くほろ苦く、それこそ残り香のように未練を募らせる。

 酷い。ひどい。ヒドイ。
 まだ好きなのに。
 こんなに好きなのに。

 どうしてあたしが巻き込まれなきゃならないの――……?

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