箱庭恋歌

□第二幕 駆け引きと敗北
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 溜息混じりに藤に向かってそう言うと、おたあ様がいかにも言いにくそうに口を挟んで来た。
「……それがな、宮さん。その……今日はいつもの岩倉さんだけやないんや」
「え?」
 いつもの岩倉だけじゃない?
 どういう意味だろ。
 しかしそれをおたあ様に質(ただ)す必要はなかった。
 疑問に対する『答え』が自分からやってきたのだ。
 廊下を歩く衣擦れの音と、女官が口々に「お待ち下さいませ」「どうかあちらへお留まりを……」なんて言う声が、微かだったものが徐々に近付いて来る。
 女官の制止を見事に無視したらしい、おたあ様の言うところの『御所の使者についてきたらしい客』が、後続の女官より一歩早く、あたしの部屋の前に下がる御簾(みす)を隔(へだ)てた向こう側の廊下に姿を現した。
「先触(さきぶ)れもなく、御前(ごぜん)失礼致します。宮様のお部屋はこちらか」
 ちっとも失礼だと思っていない口振りで現れたのは、おたあ様よりも二十は年輩の女性だった。髪型から一目で武家の人間だと判るその女性は、こっちの返答も待たずに、さっさとその場へ居住まいを正してしまう。
 武家の人間ってどうしてこう、誰も彼も無礼な人間ばっかりなんだろう。
 こっちの不快感を感じ取っているのかいないのか(恐らく後者だと思うけど)、嵐のように現れた女性は、臆することなく軽く一礼すると口を開いた。
「和宮様にはお初にお目もじ仕(つかまつ)ります。わたくしは故・十二代将軍・家慶(いえよし)公の折、奥にて上臈(じょうろう)お年寄りの任にございました姉小路局(あねこうじのつぼね)と申します。家慶公ご逝去(せいきょ)に伴いまして髪を下ろし、今は勝光院(しょうこういん)と名乗っております。そこにいる観行院(かんぎょういん)さんは、わたくしの姪に当たられます故、宮様とも縁戚の者なれど、これまでご挨拶も致しませなんだこと、まずはお詫び申し上げます」
 おたあ様の叔母様?
 じゃあ、あたしには大叔母様、つまりは元・公家(くげ)の人間ってことじゃないの。
 公家出身でも長い間武家社会で生活してると、公家社会での礼儀も忘れるってことかしら。
 言っちゃあ何だけど、どこかガマガエルを思わせるその風貌からして、如何にも図々しいおばさんて感じだ。
「丁寧なご挨拶有り難う。都へはお里帰りで?」
「恐れ入ります。里帰りと申しましても、父母はもうありませんし、今は江戸の方が里のようなものでございましょうか」
 嫌味たっぷりに応酬してやったつもりなのに、御簾の向こうで申し訳程度に平伏(へいふく)したその表情はビクともしない。見かけ通りのガマガエルのようだ。
「時に宮様。先日来、幕府官僚からお願い致しております件、宮様のお耳にもお届きでしょうな?」
 一応確認の形を取ってはいるけど、口調は確認ではなく断言だ。
 意外と回りくどいことするのね。
 単刀直入に本題に入りたくて仕方ないって顔してるクセに。
「耳にタコが出来るくらい聞いてるわよ。でも貴方達、自分達のお願いは聞いて欲しくてたまらないけど、あたしの意思は聞く気はないみたいね? 毎日毎日同じコト言いに来る岩倉殿もご苦労様だけど、あたしもいい加減同じ答えを言うのも飽きてるの。貴女にも改めて同じ台詞を言わなきゃいけないかしら?」
 キンと尖り始めたあたしの声色にも、目の前のメスガエルは全く動じた様子を見せない。
「仰(おお)せの通り、宮様が此度(こたび)のご縁談を強く拒んでいらっしゃることはよく存じております。それ程の堅いご決意を今更翻(ひるがえ)そうと努力するだけ無駄なことと、百も承知致しております。ただ、わたくしは、縁者の誼(よしみ)で、幕府とは関わりなく個人的にご忠告に上がったまでのこと……」

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