蒼弾の紅那記
□第三章
1ページ/3ページ
・咲かない百合
じめっとした天梅雨の匂いが漂う日だった。
俺達は一旦落ち着くために街に戻り、リュイと二人で俺は我が家へと向かっていた。
颯爽とした草原の野道は雨に濡れ、柔らかくぬかるんでいる。
相変わらず眠たそうな表情のリュイは、俺の腕に寄り添いながら小さくコクリ、コクリとゆっくりとしたリズムを頭で刻んでいる。
俺はリュイの頭を優しく撫でると足を止めた。
「リュイ。…おんぶするか?」
「うん…♪」
優しく頷く彼女を俺は背に乗せると再び足を進めた。
ぴちゃぴちゃと飛び散る滴が辺りを茶色く濁していた。
リュイの衣服を通して伝わる優しい感触。
この上ないような柔らかさと和やかな香り。
俺はそれに緊張していたが、どことなく冷たい暖かさがあった。
昔なら…もっと、心を暖めるような…。
シアムから聞いた話によるとリュイはほとんどを忘れた訳ではないらしい。
人との関わりを忘れ、本能的な感覚だけは残していると…。
たぶん、俺の首に回された華奢な二本の腕。
密着した優しい感触の身体は、リュイ自身の本能がそうしているのだろうと密かに思っていた。
恥ずかしいような少しばかり嬉しいような…。
少しずつ強く降る雨に俺は足を急がせた。
今のリュイは結婚したという感覚が残っていても記憶がない。
俺が好きという行動があっても思いがない。
複雑な頭の状況の中、俺は背中から落ちそうになったリュイを背負い直した。
いつもは二人で歩いていた道のりも今では独りで歩いているような…。
雨か涙か分からない雫が俺の頬を撫でるとそっと首筋に流れた。
クナキくん…
そう呼んでくれていた事が遠い昔のように感じた。
それとは別に俺には一つの不安が過ぎった。
リュイの体の中にいる《ベヒモス》の事…。
宿り主がこの状態。
やつにとっては絶好の機会の筈…。
それだけはどうしても避けたかった…。
…クナキと言ったか?…
背中から伝わる暑い感覚。
突如、俺の頭に言葉が流れてきた。
たぶん《ベヒモス》だろうと俺は察した。
《魔獣王》とまできたら、どうやら人の考えを見通すのはお手の物らしい。
「…便利だな。お前ら…」
…俺を侮ってもうと困る。この子の事は安心しろ。俺は約束は守る派だからな…
「…魔王さんも美人には弱いらしいな…」
…お互い様だろ?…
俺はそれを言われると顔を真っ赤に染めた。
徐々に消えていく暑い感覚。
どうやら、会話を終えようとしているらしい。
「…ちょっと待ってくれ!聞きたいことがある!」
俺はとっさに叫んだ。
「…リュイの記憶は…治るのか?」
《ベヒモス》はそれを聞いてしばらく黙り込んでいた。
…お前の行く先に答えはある。俺が言う必要もない…
言葉と共にゆっくりと暑い感覚が消えていった。
難しい奴だなと思いながら俺は雨の上がった空を見つめた。
黒い雲が薄く消え、明るい太陽が射し込んでいる。
「…太陽みたいに、か…」
俺は落ちそうになったリュイを再び背負い直した。
てっきり俺は記憶を無くしたリュイに避け続けられると思っていた。
けど、こうして俺はリュイの優しい体を背中で受け止めている。
それだけが今の俺には救いかもしれない。
ふと、頭に過ぎったシアム達の悲しそうな顔。
リュイの記憶が戻らない限り、みんなの事は何一つ思い出さない。
それを思うと少し悲しい感じが広がった。
ようやく家にたどり着いた俺達は、びしょ濡れのリュイを起こすと一緒にお風呂に入った。
リュイと結婚してからは、毎日のように手を引かれてお風呂に強引に連れて行かれていた。
今は眠っている彼女。
一緒に入る必要は無いとは思ったが、このままでは風邪を引いてしまうと思い、渋々連れて行った。
リュイが服を脱ぐのにためらいが無かったのに俺は少し焦っていたが、俺はその後はいつも通りにリュイの背中を流していた。
本能的に身についた習慣だったのか、リュイは綺麗に俺の前にしゃがんでいた。
こうして見るといつもと同じだな…、と思いながら俺はリュイの髪を洗い始めた。
きめ細かい絹のような髪を一本一本丁寧に指先で洗う。
リュイはそれを嬉しそうに頬を染め、ゆっくりとリズムを刻んでいた。
「…きみ、器用だね♪」
何かが足りないような感覚。
嬉しいような悲しいような…。
俺はリュイの髪を優しくお湯で流した。
艶やかな輝きを放つ蒼白の髪。
俺はリンスを綺麗に洗い流すと、柔らかいスポンジを手に取った。
リュイは濡れた前髪を横に退けると、風呂場の鏡に写る俺を見つめていた。
「…そう言えばさぁ。きみって何で私と一緒にいるの?」
リュイがとっさに言ったことに俺は手を止めた。
俺はどう言うべきか正直迷ったが、しばらくしてゆっくりと口を開いた。
「そんな事、決まってるだろ…?」
出来るだけの笑みで俺は応えると、丁寧にスポンジを動かした。
「きゃっ♪…くすぐったいっ♪」
丁度、リュイの脇の下。
俺はいつもに無いことを言われ勢い良く後ろに後退して、お湯の壁に頭と背中を打った。
ゴン!という鈍い音と共に俺の脳が揺れたような気がし、俺は気絶した。
やっとで目覚めた時は夜だった。
いつものようにソファーで目覚め、いつものようにリュイが側で寝ていた。
スヤスヤと俺の腕を枕にして眠るリュイは何一つ変わりない。
けど、普段では見たことの無い反応や言葉を言う。
本能以外の記憶を無くす。
それだけでも内心が変わってしまう事に、俺は少しばかりの心配すらあった。
もしかしたら、リュイの本能的記憶が何かによって書き換えられてしまったら…と。
そんな事を考えていると、ふと一つの疑問が過ぎった。
どうして…リュイは目覚めたのだろう。
《メルトドラゴン》に接触した人は感情を失い、寝たきりになるはず…。
しかし、今のリュイには感情があるしこうして安らかに甘い吐息を吐いて寝ている。
それとは別に記憶を無くして…。
リュイが目覚めるまでは確かに表情が無く、呼んでも起きず、二度と口を開かないとも思っていた。
しかし、突然目を覚ました。
「《ノーヴァンス》…」
丁度その話をしていた時だっただろうか。
しかし、それが目覚めた鍵にしてもあやふや過ぎる。
ましてやそんな夢物語がキーワードになるなんて…。
「う〜ん…」
リュイは小さく寝返りを打つと、何かしらを呟きながら俺の腕にはむっとパクついた。
何の夢を見ているんだ?と思いながら俺はリュイを見つめた。
その顔は実に嬉しそうに…。
俺は吸い付くように口元を動かすリュイに苦笑いをすると、優しく頭を撫でた。
それに応えているのかリュイは少しだけ頬を赤く染めた。
「…く、クナキくん…♪」
「え…」
俺は思わず声を漏らした。
記憶を無くした筈…。
でも、確かにそう呼んだ。
例えそれが夢だろうと…。
もしかしたら、俺の存在はリュイの本能までに刻まれているのか?!と、内心驚きながらも嬉しかった。
「約束したよな…一緒に守るって…」
今になっては恥ずかしい思い出になったあの頃。
その時の約束が深く刻まれているのだろうか?
それとも…。
俺は流石に赤く腫れてきた腕を気にして、嬉しそうに口元を動かしているリュイを起こした。
「…リュイ。…俺の腕は食い物じゃないぞっ」
「…ふぇ?!」
寝ぼけたリュイは濡れた口周りを急いで拭くと、俺の腕に見事にできた楕円の輪を見て頬を染め上げた。
「わっ、私…えっと…」
何時もに無いうろたえる姿に俺は微笑むと、リュイの頭を優しく撫でた。
「…悪いな、心配かけて…。今日は遅いから寝るぞっ」
「…き、きみと…いっ、一緒に…?」
リュイはカアッと頬を染め上げた。
訳が分からない彼女に俺はため息を吐くと言った。
「…一緒にお風呂まで入っておいて今更可笑しいだろ…」
「そ、そうじゃないのっ!」
突然、リュイは声を張って言った。
「…今まで何だかんだできみと行動してたけど…やっぱり見ず知らずの人と一緒にここまでするのは可笑しいよっ!…私、適当に外で寝るから…」
俺はしばらくリュイを見つめた。
普通なら普段から慣れた行動にはためらいは無い。
しかし、記憶を一旦無くしたなら話しは別だ。
たぶん、少しずつの妙な感覚が不安へとなったのだろう。
俺は立ち去ろうとするリュイの背中をしばらく見つめた。
そして、俺は素早く立ち上がるとリュイを追いかけ、その小さな背中を抱きしめた。
正直、俺にはどうするべきなのかが分からなかった。
ただ、今はリュイを抱きしめて…。
「ねぇ…」
リュイは俺の方に体を向けると、そっと俺の体に自分の体を埋めた。
「何で…知らない筈の君に抱きしめられるとホッとするの?何で私の体はそれを欲しがるの?」
「それは、だな…」
どう答えるべきか迷った。
率直に、君と結婚した。と言っても、かえって問題を悪化させるかもしれない。
かと言ってこのまま一緒に暮らしていくには変な話だ。
俺は考えに考えてやっと答えを出した。
「…リュイと俺は、パートナーだからな」
「パートナー?」
首を傾げるリュイは俺をじっと見つめた。
「つまり、一緒に暮らしている。それ意外はないっ…」
本当はそんなんじゃない…。
痛む心を殺しながら俺は笑顔で応えた。
「…一緒に暮らしてる理由は分かったよ。でも、何で私はきみを求めてるの?」
考えているうちにズレてしまっていたのに気づき、俺は再び黙り込んだ。
「そ、それはだな。…俺は良く、居心地が良い体質って言われるからかな…」
俺が半分苦笑いの中、リュイは真剣な表情で俺を見つめていた。
「…本当の事言ってくれる?」
ここまで追い詰められたら仕方ない。
俺は状況崩壊の覚悟の上で重い口を開いた。
「…リュイと俺は結婚してるんだ…。で、リュイは記憶を無くした…。全て言った…」
と、リュイは俺の背中に自分の腕をスッと回すとゆっくりと抱きしめた。
「…本当…だよね?」
「間違いは、無い…」
しばらくの間、2人とも黙り込んだ。
俺は優しく体を押し付けるリュイを支えながら暗い廊下を見つめていた。
これはどういった状況なのか…。とりあえず、良かったのか?と俺は考えていた。
普段のリュイなら素直に気持ちを出してくれる。
でも、今のリュイはまるで何を考えているのか分からない。
そんな状況だから俺の頭はモヤモヤとしたままだった。
まるで、リュイと初めて出会った時のような…。
あの時は落ち着いた綺麗な女性というイメージが強かった。
しかし、今に至っては泣き虫で寂しがり屋で甘えん坊の大切な…。
「ねぇ…」
「どうした?」
俺はリュイを見つめた。
「私が記憶を失う前と今ってどれくらい違う?」
サァっと風に吹かれてなびく草花が夜の草原に音を鳴らした。
正直、その質問に俺は困った。
どう違うにしろ、俺にはリュイはリュイという感覚しかない。
ましてや何も変わっていないような…。
考えた末。
ふと、思い出したことを俺は言った。
「…リュイはまず、考える前に口を出す…だな。たまにはぶつぶつ言っていたような気もするけど…」
それを聞いてリュイはクスッと笑うとそっと口を開いた。
「…じゃあ。きみと一緒に寝ても良いかな♪」
いつもと変わらない台詞と笑顔。そして嫌な気配…。
リュイは俺の手を優しく握った。
華奢で、優しく、暖かい手を…。