企画・頂き物
□二丁飛車に追われる夢を見た
3ページ/9ページ
翌週。
がらりと迷いなく開けられた扉の音に、アイマスクをしたままのなまえがぴくりと肩を揺らした。
「今週もおサボりで」
「聞こえの悪いこと言うんじゃねぇよい」
自分のクッションを取り出すと、マルコはそれを小脇に抱えながら改めて部屋の中を物色する。
「先生って外国語課職員室にいましたよね。英語担当なんですか?」
「ドイツ語だよい」
「…レア」
この学校には選択授業でしかお目にかかれない教科があり、ドイツ語もそのひとつだ。
とはいえ、全学年で選択授業があるので意外とコマ数はあるし、実は一年の担任もしているので、きちんと週5で働いている。
「手が空いてるときは英語課の手伝いもするけどねい」
「ふーん。…ドイツ、好きなんですか?」
「ビールが好きなんだよい」
「…オッサン」
「…ガキにはわかんねぇだろうよい」
売り言葉に買い言葉ではあるが、なまえはその言葉にむっとしたように黙り込んだ。
すると、何かに気付いたようにマルコの足の向きが変わった。
「お、将棋なんてあるじゃねぇかよい」
ほこりを被った一式に目をつけて、手を伸ばす。
しばらく放置されていたそれを手でパタパタと払ってやると、笑いながら振り向いた。
「って、新戸の年じゃ将棋なんて指さねぇかい。そうだ、将棋崩しって知ってるかよい?」
「……知ってますよ」
少し間を置いてから、寝転んだままなまえが答える。
じゃらりという音が響いたということは、やろうということなのだろう。
「寝たいんですけど」
「口止め料」
その言葉と、がさっという音に、なまえは上半身を傾けてアイマスクをずり上げる。
コンビニ袋から取り出したシュークリームをぽんぽんと手で弄びながら、にやりと笑うマルコと目が合った。
「…お茶は?」
「勝てたら来週は用意してやるよい」
のそのそ起きだして来たなまえの姿を見て、マルコは楽しそうにくつくつと笑うのだった。
息を呑むような、しんと静まった教室。
ぱちりとも響かない盤上の駒。いや、響いたら勝負あったなのだが。
「………」
「………っ」
静かに香車を引き抜いたマルコが、小さく息を吐く。
「今崩れませんでした?」
「言い掛かりつけるんじゃねぇよい。ほれ、新戸の番だよい」
ちぇ、と呟いたなまえが、盤と顔を水平にして駒の山とにらみ合う。
いつもはどこか醒めたような態度だが、こうして勝負に夢中になるところは子供らしくて可愛いもんだ、とマルコは小さく笑った。
こうして無音の部屋で勝負するのも、かれこれ何度目になるか。
言葉も視線もほとんど交わされないこの不思議な空間が、マルコは妙に落ち着いた。
それはなまえも同じなのか、毎度勝負に乗ってくるのは、コンビニ袋の中の口止め料目的だけではないような気がした。
「っ、あー!」
僅かにずり落ちた飛車に、なまえが声を上げた。
「今日は新戸の負け、と…」
今度記録表でも作るかねい。
にやにや笑いながら、マルコは駒をケースに戻す。
勝負成績は五分五分である。僅かにマルコのほうが勝率が高いくらいか。
「マルコ先生、そんななりで随分器用な指してますよね」
「そんななりは余計だよい」
最近なまえはマットを出さない。
大体マルコのほうが後にやってくるのだが、ここ数週間はちゃんと起きて待っていてくれていた。
そんな小さな変化が妙に嬉しい。
嬉しい、と感じる自分の変化には、マルコは気付かずにいた。
「案外ごっつい手してるじゃないですか」
だから
ほら、と不意に取られた自分の手を、思わず取り上げてしまった。
「…あ、ごめんなさい」
少し驚いたように瞬きをするなまえに、はっと我に返る。
「あぁ、いや、すまねぇ。…ちょっと痛めてて、よい」
なんともない指先をわざとらしくさすりながら、マルコはぎゅっと目を瞑った。
生徒生徒生徒生徒!
じわっと背中から忍び寄る気持ちを、呪文のようにその二文字を唱えて振り払う。
「…ま、そんなハンデがあっても、小娘に負けるわけねぇってことだよい」
「まっった子ども扱いですか」
次、目を開いたときには、いつものように心は凪いでいた。
にやりと笑ってなまえをからかいながら、マルコは駒をしまいだす。
悪霊退散悪霊退散。
その箱にしっかりと蓋をして、マルコは静かな教室の棚にそれを戻した。