青い稲妻

□10.事実と真実
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「座ったらどうじゃ?」

少し波の音の響く部屋で、なまえに背を向けたままカクがそう言った。

あの早さでそこそこ走っただろうか。
連れてこられたのは、町からやや外れた場所にある小屋だった。
中は一人で生活するに十分な広さで、簡素ながらも生活用品が並んでおり、カクの生活が垣間見えた。

「その椅子でかまわんぞ」

おそらく来客などないのであろう、ひとつだけある椅子に、なまえは言われた通り腰掛ける。
どこかひんやりした部屋に、ふわりとコーヒーの香りが漂った。

「狭くてすまんな」

カクはことりとカップを置くと、近くのベッドに腰掛けた。

「…そう頑なになるな」

ぴくりとも表情を変えず、口も聞かないなまえを見て、カクは苦笑を含めた溜息を吐く。

「これからどうするのですか」

コーヒーを見つめたまま、なまえがようやく口を開いた。

「そう焦るな。じき迎えが来るわい」
「…迎え?」

その言葉になまえは訝しげに顔を上げるが、カクはそれ以上を言おうとはしない。
目をつぶったまま、口から離したカップをゆるゆると揺らした。

「逃げんのか?」
「約束は違えません」
「律儀じゃのう」

くく、と喉の奥で笑う音がした。

「お前さん、どこか行きたい場所はあるか?」
「…迎えが来るのでは?」
「それとは別に訊きたいだけじゃ」

「…どこも」

小さな窓のさらに向こう、雲の上を眺めるようになまえは呟いた。

行きたい場所、と訊かれて真っ先に浮かんだのは、モビー号でも、天の国でもなく


ただ、マルコのあの、呆れたようないつもの笑顔だった。



ダン!!



「…気にくわんな」

突如大きく響いた音に、なまえははっと我に返る。

カクがローテーブルに乗せた踵の衝撃で、口をつけていないカップからコーヒーが溢れた。
ゆっくりとその長い足を戻すと、微動だにしないなまえの側へと歩み寄る。

「そんなにあの船が…いや、あの男のところがいいのか?」

心を見透かすように言うカクのその問いには答えず、なまえはきゅっと唇を結ぶ。

「…随分、血を流しておったのう」
「!」
「死んでおるかもしれんな」

パン、という乾いた音が、静かな部屋に響いた。

無表情のカクと、驚いたように目を開くなまえ。

わずかの沈黙の後、カクは上げられたままのなまえの手を掴むと、勢いに任せて壁に縫い付ける。
ガタンという音とともに、無理矢理立ち上がらせられたなまえの足がもつれ、その拍子に椅子が軋むような音を立てて倒れた。

深い襟元に隠れてはっきりとは見えないが、カクの左頬がわずかに、張られた赤みに染まっていた。

「そんなことでどうするんじゃ?お前さんがあやつらとおる限り、必ずいつか、死という別れが訪れる…遅いか早いかの違いだけじゃ」
「余計なお世話です!」

カクのあまりな物言いに、思わずなまえの口調が強くなる。
自由を奪われたまま、それでも気丈に見詰めてくるなまえに、カクは冷ややかな視線を浴びせた。

「なぜ、不死鳥マルコが体調を崩したか知らんのじゃろう」
「…え?」

予想しない話の内容に、動揺が走る。

「わしが初めてなまえに会った日からずっと、奴はお前さんの周りを警戒しておった。一日中な」
「マル、コが」

絞り出すように、なまえが呟く。


『買い物なんかエースに行かせとけよい』

『なまえお前ェ…こんな夜中まで働いてんじゃねぇよい。あァ?図鑑?…しょうがないねい、取ってきてやるよい』


昼も、夜も。
なにかしようとすれば偶然マルコがいて。

いや、皆が風邪が伝染らないようにと出歩かない船内で、なぜマルコはあんなに出歩いていたのだろう。
なぜあんなに、扉を開けるたびにマルコに会ったのだろう。

守ってくれていたのだ。
寝る間すら惜しんで、ずっと、なまえを。

「あ…」

熱が出ても、夜更けでも、唯一変化を感じて助けに現れたマルコ。

なまえはなにか胸の奥が、く、と詰まったような感覚に襲われた。

「ずっと近付けんでおったが、無理がたたってあの有り様じゃ」

結果、マルコは地に倒れた。
本当なら、カクに遅れをとることなどないだろうに。


「あやつはこれからも、命を懸けてなまえを守るじゃろうな。不死身の、お前さんを」


嫉妬。

その言葉を、こんなにも強く感じたことがあっただろうか。
強い嫉妬が殺意に似ていることを、カクは初めて知った。

「お前さんに正義を説く気はない。…ただ、忘れろ。それが互いのためじゃ」

吹き込むように、なまえの耳に囁く。

彼女に浴びせた言葉は、全て事実。
それは、恐らくマルコが目を背け、認めたくなかった、隠したかった真実。


冷徹なカクの声が、ひんやりとした部屋に静かに響いた。





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