正助と小娘

□第八章
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【薩摩藩 大久保利通】

世の刃傷沙汰というものは、大体において、刀を抜いてからしまったと思うものらしい。

その理由は何であれ、士道においては一度抜いた刀を相手を倒すことなく収めることは、武士にあるまじき行為とされている。

あるまじき行為とはつまり、理由はともかく武士であるならば、一旦剣を交えた以上、敵前逃亡は死に値するということである。
敵に後ろを見せたことが知られれば、切腹を申し渡されるか、朋輩に斬り捨てられる。

単に世間の物笑いになるだけですまされる話ではない。

それほどの禁忌を、感情に任せて破ってしまう人間は、ただの愚か者だと思っていた。

忠臣蔵の芝居なぞに夢中になっている連中を見て、松の廊下で刀を振り回したバカ殿に忠義を尽くす話など、何が面白いのかと理解に苦しんでいた。
だいたい、藩ひとつの命運を握り、多くの人間の運命を左右できるような重責のある男が、つまらん遺恨で刀を抜くなど、無責任にもほどがある。

そう、鼻先でせせら笑っていた。

まあ、考えが甘かったと言うことなのだろう。
世の中の事件というものは、おしなべて、自分にはそういった軽挙妄動は縁がないと、多寡をくくっている人間ほど、陥りやすいものだ。


小娘が沖田に斬られたと思った瞬間から、激情に任せて斬りつけ、勢い余って賽銭箱を叩き割ったところまでは、実を言うとあまり記憶が定かではない。

何やら自分がもうひとりいるような気分で、ばらばらに散って吹き飛んだ木片が、しめ縄にも当たってぶらんぶらんと揺らす光景など、どうでもいいようなことを他人事のように憶えている一方で、当の自分が何を考えていたかは、どうもはっきりしない。

ただ、ふと我に返ると、自分が京で一二を争うと言われている剣術使いと対峙していたこと、そして、自分の命やら藩や日本の将来やら、そんなものは何故かどうでもよくなっていたことは、記憶している。
そして…くそ恥ずかしいことに、まるで青臭い小僧のように…こいつに勝つことは叶わずとも、刺し違えて小娘の仇を取ってやるなどと…沸騰した頭で考えていた。

その時、奇妙なことが起きた。

その、木片が当たってゆれるしめ縄のあたりから、目もくらむような白い光があふれ出た。
どん、と鈍い衝撃とともに、私と沖田の体は十尺ほど吹き飛ばされて、地面に叩きつけられた。

私はくらくらしながら立ち上がったが、沖田の方を見ると、打ちどころが悪かったのか、それとも光がやつだけをことさら強く打ったのか、気を失っている。

そして、光の中に、小娘がぼーっと間の抜けた顔で、立っていた。

「お…大久保さん?…会いたかった…」
と、さらに間の抜けたことを小娘は言った。

会いたかったも何も、お前が藩邸を飛び出したのは、せいぜい半刻前にすぎんぞ。

だが、小娘の様子がおかしい。
急いで駆け寄ると、こちらも、私の腕の中に倒れ込んできて、気を失った。

その時は何が起きたのか、まったく解せなかったが…。

私は小娘を抱え上げると、大急ぎでその神社を離れた。

敵前逃亡…?

いいんだ、そんなものは。バレなければ。

士道などというくだらんものに、命を賭ける趣味など、私にはない。

とりあえず、小娘の介抱が先だ、と私は思った。

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