さらば愛しき馬鹿娘

□第九章
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伏見 御香宮 薩摩藩陣所。四半刻前。

【薩摩藩 大久保利通】

その時私は、神社の建物の一つを借りて設営した薩摩軍の陣屋の中で、西郷と二人、打ち合わせをしていた。
机上に広げられた地図と各軍の現在位置を検討しながら、この先の薩摩軍の動きについて、意見を闘わせた。
坂本君が以前持ってきた教鞭とかいう西洋の道具で、地図上をぺしぺしと叩き、方向を示す。なかなか便利である。

打ち合わせの最中に、大坂から進軍してきた会津軍が、薩摩藩邸を通過する際に火を放ったという知らせが飛び込んで来た。
余計なことをしてくれる。あそこからはすでに引き払った。今は無人だ。火を放つ意味がない。
また近隣の住民には大火事でつらい思いをさせる、とは思ったが、想定内だ。

おそらく間もなく、幕府軍と討幕軍との間の戦が始まる。
斉彬公の時代から、二十年弱。薩摩の多くの人間が犠牲を払いながら追い求めてきた、新しい日本の姿が、実現するかどうかは、おそらくここ数日の戦いの行方で決まる。

いつもどおり、西郷が戦術担当。戦の陣頭指揮を執る。
私は戦略担当。御所の不穏な動きを抑え、小心者ぞろいの朝廷に、この後に及んで梯子を外されぬよう、政治的に薩摩を守る。
そのはずだった。

打ち合わせの途中で、大山が岩倉卿からの早馬だと、書状を持って来た。
戦と聞いて朝廷の腰抜けどもが浮足立っている。土佐の容堂公も何やら工作を始めた。このままでは討幕勢は朝廷側から内部崩壊する。早く来てくれ。そう書いてあった。

その知らせに急いで西郷との話を打ち切り、御所に向かおうと私が席を立ちかけると、今度は半次郎が泡を食って、陣屋に飛びこんで来た。

「お、大久保さぁ!ゆうさぁが…ゆうさぁが…藩邸にっ!」
「何の話だっ」

半次郎があわてふためいて語るには、陣所に絵草紙屋の娘が駆け込んできて、ゆうの姿を炎の中で見たと言う。
あの娘ならとうに未来に送り返したはずだ、見間違いではないかと言うと、半次郎は首をふった。

「そいじゃっどん、あげな珍妙な服装のおなごはゆうさぁの他には無かゆうて…」

絵草紙屋の娘が言うには、ゆうは初めて現れた日と同じ、あの妙な、水兵と唐人踊りのあいのこじみた格好でいたという。
あの娘には…この時代に来た初日以外は、例の服装は許していない。戦火の中に飛んだという話も聞いていない。

つまり…考えたくはないが、こともあろうに今日、送り帰したはずの未来からゆうが舞い戻って来たとしか、考えられない。
そして愚かにも藩邸に向かい、会津兵が火を放つのを見て、逃げ出した…。そういうことだ。

なぜ…よりによって今日なんだ?
幕府と薩長との戦いが、今にも始まろうとしている時に、なぜ舞い戻って来た?

ひとがどれだけ…お前に醜い戦のことなど聞かせまい、危険な目には遭わせまいと、努力してきたと思っているんだ。
その努力をすべて水の泡にするかのように、今、伏見を焼く戦火の中に、ひょっこり現れた、だと?

「あの…馬鹿娘がっ…」

私は思わず陣屋から走り出ようとした。
その途端、ひどく強い力で肩をつかまれ、がくん、と体が止まる。

「何をするっ!」

振り返ると、西郷が、非常時にしか見せない思いつめたような強情な面をこちらに向けていた。
もがいたが、西郷の指は私の肩に食い込むような馬鹿力で、いくらあがいてもふりほどけない。

私は、薩摩藩邸があった方向の空を見た。
西の空は、すでに赤々と照らされて、尋常でない量の黒い煙が上がっている。
伏見の藩邸のあった周囲の家並みは、今、炎の中にあるはずだ。

半次郎がせかすように喚いた。

「ゆうさぁは…薩摩の陣営がここにいるこっは、知りもはん。一人でひん逃げらるっお人でもありもはん。早よ助けんとけ死んやすっ」

このままでは小娘が焼け死ぬ。
なぜすぐに飛び出さない…と、その表情が言っていた。

「手を離せっ」
と、私は西郷に向かって喚いた。

「ここは行かせん!」
「何だとっ」

「利通…戦闘が始まったときに、お前が御所にいなければ、あの臆病な公家どもは、天皇陛下を連れて京都から逃げ出すぞ。
そうなれば、我々の負けだ。島津の殿様父子ひっかついで日本全国逃げ回る羽目にもなりかねん」

「…わかっとるっ!」

「お前の気持ちはわかるが…おいは、千何百人もの薩摩兵の命を預かっている。
それに、こん戦には、薩摩藩だけではない。日本の命運もかかっている。
おいどんの薩摩を、日本を危険にさらす者は、お前でも許さんっ」

「…!」

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