正助と小娘

□第二章
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最近の薩摩ではもう無くなった話だが、当時は、妙なことに、たいがいの神社は別当という坊主に支配されていた。

神も仏も一緒くたに祀るのが、当たり前だった時代の話だ。

一緒くたで何が困るというわけではなかったが、寺の坊主がそれだけ羽振りが良く、本来の自分の寺から離れ、上の者の目の届かないところで、別当が好き勝手をするのには、目に余るものがあった。

当時、寺の立場の強さには、とんでもないものがあった。

例えばあの別当が、生意気な小僧の鼻っ柱をへし折るために、縛り上げて一晩放置して反省させようなどと言う真似を、平然とできたのは、それで万一のことが起きたとしても、場所が境内であるかぎり、町方の与力などが調べに入ることはできず、すべて寺社側の都合でうやむやに揉み消すことが可能だったからだ。

しかし、妙に社会正義に目覚めた気分でいる生意気な小僧の方にしてみれば、僧侶などというものは、社会的立場が強いというだけで、これすなわち敵なわけで、説教を聞いてやる気など一切ない。

放置されても反省するどころか、とにかく別当の鼻を明かして、見事脱走してやることしか頭になかった。

なんとかその場から逃げだす手段はないものかと見回したところ、拝殿の壁を覆う垂れ幕が体の届く位置にあった。
で、これ幸いと、鋲でも落ちてきて紐を切る道具にできまいかと、垂れ幕に噛みついて思い切り引っ張ってみたわけだ。

すると、垂れ幕が皆つながって勢いよく落ちてきたのは計画どおりだが、垂れ幕を釣る紐か何かとつながっていたのだろうか、垂れ幕のすぐ外にあったしめ縄までもがその拍子でぶっつりと切れた。

そして、その途端…。
どういう理屈かはわからないが、目の前の、何もない宙空からあの小娘が降って来た。


正直言って、あの時は驚いた。

気を飲まれて見入っていると、闇の中で、あの娘の体の中からだけ、何かがぽうっとおぼろに光っているように、私には見えた。

その時、私が感じたことは…。


いや、あれは状況がひどく特異だったせいだろう。
でなければ、あまりに世間知らずだったせいだ。


美しい…などと、思ってしまった。


断っておくが、今、私が同じ状況になったとしても、そんなことは絶対に思うわけがない。

その当時の私は薩摩はおろか鹿児島の町の外すらほとんど出たことがなく家族以外のおなごにもほとんど知り合いがいなかったから世間の美人がどういうものかまったくわかっていなかっただけの話であって小娘のことを美しいなどとそんな世迷言を考えたのは何かの間違いであるとしか考えられないと言うか間違いに決まっているわけでつまりそれは要するに何と形容するべきかええい忌々しい何で私はこんなに長々と言い訳じみたことを書いているんだっ。

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