さらば愛しき馬鹿娘

□第九章
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私は、西郷をにらみつけた。
あいつは、黒目がちの犬ころのような、変に悲しげな目で、しかし同時に、まるで突然何倍もの背丈に膨れ上がったような圧倒的な存在感で、私を見据えていた。

こいつは昔からそうだ。
こと、自分の仲間の命がかかった話になると、どんな理屈も通じない。ただただ、頑として譲らなくなる。

「…ゆうさぁの命を取るか、ゆうさぁ見限って幕府い倒らかすか、選っやいゆこっじゃすか」

と、半次郎がきつい声で言った。こいつが西郷に対してこんな声で話したことは、今まで一度もない。


小娘を救いに行くか、小娘を見殺しにして幕府を倒すか、二つに一つを選べ、だと?

小娘ただ一人の命と、京の薩長軍四千人強の命を…。
そして、小娘ひとりの未来と、薩摩領民三十五万人、日本人三千万人の未来を、秤にかけろ…というのか?



「私は…」

返答をしようとした。
が…途中で声が出なくなった。
無理やり声を絞り出そうとしたが、情けないことに、ひどくかすれた息のような音しか出なかった。

理屈では、結論などわかり切っている。
だが、口に出そうとすると、制御できないほどがくがくと体が震え、両脚に力が入らなくなった。
私は、もう一度、椅子の上に倒れ込むようにしてへたり込んだ。

言わなければいけない言葉を、口に出そうと、私は歯を食いしばった。

「半次郎…ここはいいから…持ち場に戻っていろ…」

そう言うと同時に、無意識に握りしめたままになっていた教鞭が、両手の中で大きな音を立てて二つに折れた。


「…あの娘を…助けには…行けない…」


半次郎の目が、信じられないと言いたげに見開かれ、西郷と私の両方を見た。

「ないごてそげなこっ…。大久保さぁにはゆうさぁが何いよっか大事(でし)と違ごたもしたかっ」

「半次郎!」と、西郷が鋭い声を上げた。

「…私は戻れと言ったはずだ。半次郎、お前は私の命令が聞けんのか」

と、私は、言った。怒鳴りたいが、喉から音が出ない。ともすれば声はかすれて消えそうになる。


半次郎は、無言でわれわれ二人をにらみつけた。

「…すんもはんじゃした」

すまぬなどとは微塵も思っていないような口調で、半次郎はそう言うと、自分の持ち場へと駆け去って行った。

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