季節もの他
□愛蘭土国の祝祭の日
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薩摩藩の大坂藩邸に、アイルランド人のウィルさんが幕府の目を盗んで、英国公使の手紙を持って来て、去って行った日のこと。
ウィルさんは、けっこう緊迫感のある任務なのに、私にもおみやげを持ってきてくれてて。
もうすぐ聖パトリックの日というアイルランドのお祭があるんですよ、なんて言いながら、可愛いカードとソーダブレッドをくれた。
幕府の回し者が見張ってないか、藩邸の人が外を確認する間、ウィルさんと私は世間話をして、そのお祭りの話題で盛り上がっちゃって…。
ウィルさんはとっても機嫌よく帰ったんだけど…。
私がウィルさんの乗った船に、手をふっていたら…。
たまたま同じ日に、別の用事で藩邸に来ていた慎ちゃんが、なぜか少し離れた物陰に隠れて、少しいじけた様子で、それを見ていた。
「あれ、慎ちゃん、そこにいたんだ…。お仕事、終わったの?」
「さっき、終わったところっス…。姉さんのお邪魔になんないよう、すぐ帰ります…」
なんだか、ものすごく沈んだ声。
「慎ちゃん…どしたの?」
肩なんか震わせて、とっても深刻そうなんですけど。
慎ちゃんは、しばらくキッと前を見つめていたけど…、
「どうせ俺なんか…俺なんか、小さすぎて、姉さんに気づいてもらえないっスよっ!」
と、突然叫ぶと、なんかものすごく深刻そうな様子で、くるっと振り返ると藩邸の外に飛び出していった。
「し…慎ちゃん?」
私がびっくりして、慎ちゃんの後姿を見送っていたら、別の部屋から出て来た大久保さんが、不思議そうな顔をして言った。
「小娘、今度は中岡君に、何をしたんだ?」
「今度はって、何ですかっ」
…それにしても、慎ちゃん、どうしたんだろう?
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「こびと?」
数日後、京都に帰ってから、私は慎ちゃんのことが気になって、寺田屋に行った。
でも、皆はちょうど出払っていて留守とかで…。
慎ちゃん、大丈夫かな。
なんかせっかく外出したのにつまんないな…と思って、ちょいと道草して帰ったら、留守の間に龍馬さんが大久保さんのところに来て、話していったと言う。
すれ違いかぁ。なんてタイミング悪いんでしょ。
で、大久保さんに、龍馬さんが慎ちゃんのことを何か言ってなかったかと聞いたら、こびとの話をしたかと聞かれた。
「よくはわからんが…小娘、あの愛国人と、こびとの話をしていたそうだな」
と、大久保さんが少し、眉をひそめて言う。
「えっと…はい…」
私はちょっと考えて、ウィルさんにもらった聖パトリックの日のカードを取り出して、大久保さんに見せた。
緑の服に緑の帽子をかぶって、緑のクローバーに埋もれるように、座り込んでいる気のよさそうな小人のおじさん。
夜中に靴なんかも、作ってくれるらしい。
「なんか、このカードの小人の絵で盛り上がったんですよね。
アイルランドの妖精で、レプラコーンって言うらしいです」
大久保さんは、その小人の絵をまじまじと見て、急にけらけら笑い出した。
「小娘の時代は…この森の精のようなものを、小人と言うのか?」
「違うんですか?」
「今の時代はな。『侏儒(こびと)』と言うのは、平均以下の身長の人間をあざけって呼ぶ言葉だ」
う…。
「ふん。馬鹿馬鹿しい。いつも緑の服を着ていて、小さすぎてどこにいるか見えないというのは、この色紙の化け物のことだったのか」
「へ?」
あ…慎ちゃん…。
私とウィルさんの話を聞いて、背が低いの馬鹿にされたと思っちゃったんだ?
大久保さんは、腕を組んだまま、はああと呆れた顔でため息をつくと、
「お前ら、もう出て来てもいいぞ」
と声をかけた。
へ?
と、同時に、大久保さんの後ろにあった大きな屏風の陰で、誰かがじたぱた騒ぐ音がする。
「慎太、観念しろ」
「ほれ。わしの言ったとおりじゃろ」
「見苦しい。さっさと出なさい」
「お…俺、姉さんに合せる顔ないっス…。って…待ってくださいっ」
ぽん。
誰かに突き飛ばされて、慎ちゃんが、屏風の陰から飛び出てきて、畳の上に尻餅をついた。
私の顔を見て、真っ赤になる慎ちゃん。
「あ…あの…姉さん…その…」
しどろもどろになった慎ちゃんの頭を、六本の手ががしっとつかんで、畳にこすりつけた。
「さっさと、謝れ」
「見苦しいのはよくない」
「ま、これで誤解は解決じゃき」
と、龍馬さんがにししと笑った。
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「それで、その小人の活躍する聖パトリックの日というのは、何をする日なんですか」と武市さんが聞いた。
「えと…緑の服を着て、町中を練り歩いたり、皆でパーティ…じゃない、宴会したりするらしいです。
服じゃなくても、緑のものを身に着けていればいいんだそうですけど…」
「緑の服…。なんだ、慎太以外は関係ない祭りか」と、冷めたコメントをする以蔵。
「緑の服を着ゆうと、何かええことがあるんじゃろか?」と、龍馬さん。
私も、説明に困ってしまった。
「えーと…よくは知らないんですけど…。緑の服を着ていると、アイルランド人の印だってことで…。
誰でも、その人のほっぺにキスしていいんだとかで…。
アイルランドでは、緑の服着て町を練り歩いていると、若い女の子とかが駆け寄ってきて、チュッてしてくれるらしいです」
「なんとっ」
「ほっぺにキス…だと?」
「若い娘が、頬を唇で吸ってくれると」
三人が一斉に、慎ちゃんを見た。
「え…」と、焦る慎ちゃん。「そ…それはつまり、俺は緑の服を着ているから…ね、姉さんが…俺の頬に…」
がし!とまた、六本の手が慎ちゃんの頭を畳に押し付けて、黙らせる。
「そいたら、わしも緑の服を着るぜよ!」と龍馬さんが、高らかに宣言した。
「お前は黒でいいっ」
「何じゃとっ」
たちまち、どしんばたん、とにぎやかな音が始まる。
薩摩藩邸でも、やっちゃうんですね。取っ組み合い…。
うーん…。
でも…その…。
私は、もうひとり…。
変に静かな人の方が、気になっちゃってんですけど。
こういう場合、まず最初に、「ええい、静かにせんかっ」とか怒鳴りそうな人が…なぜ何も口をはさまないんでしょうか?
私はそおっと振り返って、大久保さんをうかがった。
大久保さんは、顔色をまったく変えず、ふふん、と馬鹿にしたように私たちを見てた。
…なんか、でも…。
オーラが黒いです。
何か、まずい話、したかな。
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そして、聖パトリックの日の朝。
私が、トンちゃんだっこして、気持ちよく寝てたら、例によって襖をパシン!と開けて大久保さんが入って来た。
「小娘!いつまで寝ている!」
あ…朝か…。
なんか昨日…ちょっと眠れなかったんだよね…。
「ふん、相変わらず、寝起きの顔は一段と阿呆面だな」
「…ひ…ひどいです…」
私は、つい目をこすって大久保さんを見ちゃったけど…。
大久保さんの着物は、いつもどおりの薄紫色だった。
なんだ…。
…って、私、何期待してたんだろ。
大久保さんは龍馬さんと違うから、こういうシチュエーションだったら、意地でも緑の服なんか着てくれないよね。
…残念だな。
って…いやいや、そんなことはありませんって。
…と、思ったら、いきなり庭先に、なんかとっても派手な、エメラルドグリーンみたいな着物を、片袖にまとった人影が現れた。
「よう、久しぶり。元気してたかっ」
は?
庭先に立って、これ以上元気にはなれないみたいな笑顔でこっちを見ている姿に、呆然とする。
「…たっ、高杉さんっ?」
な…なんで薩摩藩邸に…。つか…どこから…。
神出鬼没過ぎですっ。
その後ろには、渋ぅい黒に近い緑色の着流し姿の桂さん。
「どうして私まで…」
「いや。こんな貴重な機会、駆けつけないわけにはいかんだろう。何しろ、お前が俺の頬に…」
と、高杉さんのセリフは途中で止まった。
ざっぱーーーん!
庭先に立っていた高杉さんに、縁側に置いてあった桶の水を、頭っからかぶせた人がいたからだ。
…つか、いつも置いてないはずの水桶が、なぜ今日だけ都合よくそこにあるの?
「何をするっ!」
大久保さんは無視して、ぱんぱん、と手を叩いて女中さんを呼んだ。
「おい、濡れた着物を替えてやれ。書生用の紺がすりの着物があったろう。…桂君も、飛沫がかかったようだな」
「やめろっ、俺は着替えないぞっ」
「ほう。桶の水で足らんなら、池で鯉と一緒に泳ぐかね」
などと、高杉さんが騒いでいるうちに、また、別の声がした。
緑色の人影が、4つ立つ。
こっちは、皆そろって慎ちゃんのいつもの格好。
「姉さん、おはようっス」
「今日も元気そうじゃの」
「…俺は、付き合いだ…」
「お邪魔するよ」
…そか、慎ちゃんのあの服は、けっこう着替えの数があったんだな。
でも、武市さん、丈が足りなさすぎて、色白のおみ足がのぞいてます。
で、また。
ざっぱーーーん!!!
…って、いくつ水桶隠してあったんですかっ。
「何をするがっ」
「俺はあきらめないっス」
「斬るぞ!」
「武士にこんな非礼を働くとは、正気ですか」
大久保さんは、ふん、と笑った。
「幕府の隠密も生きては帰れぬという薩摩藩邸で、私に喧嘩を売る気なら、やってみたまえ。
古井戸に放り込まれたまま、骨になりたければな」
あの…冗談…ですよね。その脅し、ちょっとブラックすぎるんですけど…。
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でも、まあ。
結局、皆、なんのかんのって大騒ぎをしたけど。
最後は素直に緑の服を着替えて、それを庭に干すと…。
ちょうどいいやと、お仕事の話を始めちゃって…、薩摩から届いたばかりの砂糖菓子も食べて…。
着物が乾いたら、素直に帰って行きました。
あー、びっくりした。
一瞬、どうなるかと思ったよ…。
そして、お仕事も終わって…。
一度に帰ると危ないからと、半刻おきぐらいに分かれて帰って行く皆を、順番に送り出してたら、いつの間にか、夕方になってた。
最後に帰った慎ちゃんを、正門でお見送りして、私がふうっとため息ついてたら…。
横に立ってた大久保さんが、すっと手を伸ばして、門の横に生えてた常緑樹の小枝の先を、ぽきんと折った。
何をするのかな…と思って見てたら、その緑の枝を、大久保さんは私の髪に挿した。
「服でなくとも、緑のものなら、何でもいいと言っていたな」
え…。
なんか、一瞬、時間が止まった気がした。
自分の頬に、何か柔らかい、風みたいなものが触れて、去って行くのを感じながら、私は、なんかぼおっとしたまま、そこに立ち尽くしてた。
大久保さんはついっと私から離れると、そのまま後ろも見ずに、白い庭砂利をじゃりじゃりと乱暴に音をさせて進んで、玄関口で振り返って私を睨んだ。
「何をぼさっとしとる。交通の邪魔だ」
「あ…はいっ」
私は、あわてて、速足で大久保さんを追いかけたけど、大久保さんは待ってくれなくて、ずんずんと屋敷の中に入っちゃった。
…。
……。
今の、ほんとにあったのかな。
…。
聖パトリックの日、かぁ…。
実はどういう聖人さんか知らなかったりするんだよね。
とってもご利益ある人なんだね…って。
いやいや、そーゆーことじゃなく。
…。
なんか今頃どきどきしてきた…。
だって不意打ちなんだもん。
でも、なんか嬉しいな。
そして私は上機嫌で、今晩はこっちの頬は洗わないで寝るぞ!とか。
妙に盛り上がって藩邸の中へ戻ったのでした。
【Fin】