短編集
□緑の国から来た青年
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私が大久保さんのお仕事について行って、イギリス艦隊を訪ねたときの話。
大久保さんと私は、イギリス公使さん主催のパーティの開かれていたいちばん大きい船のデッキにいたんだけど、そのうち、大久保さんは公使さんと話があると言って、イギリスの偉い人たちと艦長室かどこかへ行ってしまった。
なんかすごい微妙な話とかで、私は一緒に行かない方がいいみたいだったので、ひとりでデッキに残って、待つことにした。
ちょっとさびしいけどしかたない。
そもそも、そういうお仕事のために来たんだもんね。
それに、ちょっと疲れたから、ゆっくりするのもいいかも。
私は、船の縁の手すりみたいなとこに寄りかかって、船の外の景色を見た。
やっぱ、21世紀と比べると、海も空もきれいだよなあ…。
船はちょっと沖にあるので、緑の海岸線に点々と小さな村が並んでいるのが見える。その向こうには山がつらなってて…えーと、何つってたっけ…六甲山とか何とか。
なんか、景色いいなあ…。
なんて、ぼーっとしてたら、さっきとは違う若いイギリス人ぽい人に、
「お嬢さん、どうしましたか。ご退屈なさっていないとよろしいんですが」
と、声をかけられた。
この人は他の人と違って軍服じゃなく、大久保さんのと似た黒い膝丈までの上着を着ている。
年は…慎ちゃんくらいかな。
「あの…すごい日本語がきれいですね…。
私よりうまいって言うか…」
「ああ、それは仕事ですから。英国公使館通訳見習いのウィル・アストンと申します」
と、ウィルさんは人懐っこい感じの笑顔で言った。
「…ウィルさんもイギリスの人なんですか」
ウィルさんはちょっと複雑な顔をした。
「一応、国籍はイギリスです」
「いちおう?」
「その…ぼくの国は…もう無いんです。イギリスに吸収併合されてしまいまして…。
ご存じないでしょうが、アイルランドという小さな国で…」
アイルランド…?
「あ、ギネスビールの国だ」
ウィルさんが目を丸くした。
いけない…また、つまんないことを言ってしまった…。
何だろ、この子って思われたよね。
…って思ったのに。
「ギネスをご存じなんですか?」
と、ウィルさんはとっても嬉しそうに笑った。
ぎ、ギネスビールって幕末にはもうあったんだ…。それも、これだけ嬉しそうなとこを見ると、すでに有名ブランドっぽい。
老舗だとは思ってたけど…。
で、その会話をきっかけに…なんかウィルさんにえらく気に入られてしまいました。
デッキを案内してくれたり…飲み物持ってきてくれたり…。
ちなみに、アイリッシュコーヒーは幕末にはまだ無いようです。
ギネス、おそるべし。
デッキの後ろの方には、やっぱりアイルランドの人たちらしい乗組員が集まってて、皆でフォークダンスみたいの踊って楽しんでた。
カドリールって言うらしいんだけど、なんかすごい簡単なステップなのですぐ覚えられて、楽しかったです。
「イギリスの船なのに、アイルランドの人…いっぱい乗ってるんですね。びっくりした」
「まあ、皆、食い詰め者ばかりですからね」
と、ウィルさんはまた、私が絶対使わないような、難しい日本語で言った。
「もう、アイルランドは人の住める国ではないので…食い扶持を探して、極東まで流れて来る者も多いんです」
…何かウィルさん、今さらっと、すごいこと言った気がする。
「人の住める国じゃないって…」
「ええ。ぼくの子どものころに飢饉があったんですよ。4年くらい続きましたね。
ただでさえ農作物がほぼ全滅状態でまったく収穫できなかったんですが、残された食糧もすべて、イギリス本土優先ということで英国政府に持ち去さられてしまいまして。
アイルランド人の4人に1人くらいは死んだかなあ。
さすがにそれだけ亡くなると、もう社会全体が機能しなくなってしまいましてね。多くの人が海外に逃げ出して、例えば日本や中国にも来ているわけです。
ですから、今のアイルランドの人口は、飢饉前の半分くらいになってしまいました。
まあ、国土全体が荒れ果ててしまいましたから、それ以上、人が住めるような状態じゃないんです」
…そういう話を、にこやかに普通の顔で言わないでほしい。
「なんか…アイルランドの人って…苦労してるんですね…」
「そうですか?」
と、ウィルさんは不思議そうに聞いた。
「イギリスの支配下の国なんて、皆こんなものですよ。中国も2回のアヘン戦争以降、たいへんみたいですし、インドも大反乱で国土が荒れた上、皇帝が流刑にされて王朝が滅びてしまって…国土全体が植民地になりつつありますしね。
苦労しているのは、何もアイルランドの人間ばかりじゃありませんから」
ひ…比較対象がなんか違う気がする。
でも、なんかウィルさんは全然気に病んでないみたいで、にこにこしながら言った。
「日本のお嬢さんで、こんなに国外のことをご存じの方がいらっしゃるとは知りませんでした。
話していて楽しいです。
そうだ。いっそ、英国公使館に来ませんか?
何でしたら、公使にお話を通しておきますが」
ええっ…!
その時、私とウィルさんの後ろで大きな咳払いが聞こえた。
あっ…と振り返ると、ものすごく不機嫌そうな顔で、大久保さんが立っていた。
「…何の話をしている?」
「大久保さん…お仕事の話、終わったんですか?」
大久保さんは私の質問をスルーして、ウィルさんに、
「悪いがこの娘は薩摩藩で私の秘書見習いをやっていてな。話があるなら、私を通してもらおうか」
と言った。
えーと…いつの間に私、秘書見習いに出世したんでしょうか?
そんな話は聞いてないんですけど。
なんかちょっと頭がぐるぐるしているうちに、私は大久保さんに手を引っ張られてその場から連れ出されてしまった。
「まったく。何が、英国公使館に来い、だ。
毛唐は油断も隙もないな」
そう言いつつ…たぶん嫌味のひとつでも言おうとしたんだろう。私の顔を見て、それから不審そうな表情になった。
「どうした?あの男に、何か他にも妙なことを言われたのか?」
そういうわけじゃないんだけど。
なんか私、深刻そうな顔してたのかな。
「あのね…大久保さん」
「何だ」
「大久保さんや、他の皆は、徳川幕府を倒すんだって言っていろいろ頑張ってるよね?」
「ああ。それがどうした?」
「でも…大久保さんたちがやっつけようとしてる本当の敵って…実は幕府じゃないんじゃないかなって思った。
幕府を倒すのも…すっごいたいへんだと思うけど…。
本当の敵は…もっともっと強くて…倒すとか追い出すとかさえ考えられない相手だけど…。
でも、日本が他の国に支配されないで、皆が平和に幸せに暮らすためには、一生かかっても戦い続けないといけないんだろうなって思った」
私は、この船に、乗り込んだ時のことを思い出した。
横3列に、大砲がずらっと並んでて…船の片側だけでも三、四十門の大砲が、兵庫の町に向けて突き出されていた。
その気になったら、きっと、兵庫の町だけじゃなくて、大坂の海岸線だって、この船一隻で焼き尽くせる。
「…そういうことを、英国海軍の旗艦の上で、堂々と言うのか、この小娘は」
「あっ、ごめんなさい…。
あの…だから言いたかったのは…。
大久保さんの背中にしょってるものって、本当に大きいんだなあって…。そう、思った…」
「…何だ。惚れ直したか」
いや、そういう話ではないんですけど。
「まあ、心配せずとも、私の目の黒いうちは、二度と外国船に日本の町を焼くような真似はさせん。安心しろ」
と、大久保さんは、ものすごく気軽に言い切った。けど…この人の場合、それでちゃんと言ったとおりに守っちゃうからなあ…。
頼りがいって点においては、半端ないよね。この人。
日本人全員の平和と幸福が、この背中にかかってるわけか…。
…あれ。
そすっと、やっぱ惚れ直したって話になっちゃうのかな?
私は、ちょっと大久保さんの背中にほっぺたくっつけてみた。
「…おい?」
「なんか今日、怖い話聞いちゃったんだもん。でも、こうしていると…安心しちゃう」
大久保さんは、やれやれという感じのため息をついた。
「まったく…いつまで子どもの気分でいるんだ。この小娘は…」
そう言って、私の頭をくしゃくしゃっといじる。
ひとに頭触られるのも、なんか安心するなあって…私は、そう思った。
【Fin】
<2011/9/1>