短編集

□ゆいぬはな、さかさ
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≪ゆいぬはな、さかさ(百合の花、咲かそ)≫

【薩摩藩】大久保利通

一年前の秋、薩摩から着いたばかりの知人から、土産だと言って南国にしか咲かない百合の球根を渡された。
懐かしいだろうと笑みを浮かべたその男に、そうだなと言って話を合わせたが、内心、さてどうしたものかと考えた。

私を喜ばせようと、薩摩からはるばる重い目をして運んで来てくれた。その気持ちは、ありがたいものだと思う。
しかし、この百合は鹿児島の私の家では、長い間、植えてはならぬ花だった。
亡き母が、忌み嫌っていたからだ。
京に来てまでそれにこだわる気持ちもなかったが、自分の部屋の前の庭にはどうしても植える気にはなれない。
私はその球根を植木屋に渡し、奥座敷の女用の客間の庭にでも植えてやれと言い置いて、そのまましばらく忘れていた。

しかし世の中は、期待しない方がよい結果を生むこともあるらしい。
何か月かして植木屋に言われて見に行ってみると、すべての球根が見事に育って、白いつぼみを、いっぱいに付けていた。
いくつかのつぼみは、まさに大きな花をほころばせようとしている所で、すでに馥郁たる香りが庭中に漂っていた。

そんな頃、あの小娘が藩邸にやってきた。
若い娘なら花も好きだろうと、その客間に泊めてやることにしたが、案の定、いたく気に入ったらしい。
部屋に入る前は、神妙な暗い顔をしていた小娘が、花を見た途端、幼い子どもに飴でもやった時のような顔で、まあえらく嬉しそうな笑顔になった。

「ありがとうございます。なんかすごくきれい」
「単純なやつだ」

そう言うと、小娘は頬をふくらませて怒っていた。

****

考えてみると、この百合を庭で育ててみたのは、5才の時以来だ。
ある晩、父が酒を飲んで帰って来ると、「育ててみろ」と言って球根を私に渡した。
父は滅多に子どもに声などかけぬ男で、何かをしろと命じられたことはほとんどなかった。
何しろ5才のガキだから、百合の球根などというつまらん物でも、自分に託されたことが妙に誇らしく思えた。
それでまあ、庭の隅に植えて毎日欠かさず水をやり、大事に大事に育てたせいか、百合はすくすくと伸びていった。

そして、あと少しでつぼみがつくというところまで来たころだった。
縁側で縫い物をしていた母に、何に水をやっているのだと聞かれ、私は素直に百合だと答えた。
母はその答えをろくに聞かないうちから、はだしで庭に走り出ると、百合をすべて引き抜いて、さんざんに踏みつけた。
そして、茫然としている私に、こんなもの、みな燃やしてしまいなさいと命令した。
何か月もの間、大切に育てた百合ではあったが、踏まれて折れた茎は、もう救いようがなく、母に言われるまま、燃すしかなかった。

その百合のふるさと、白い花の群生する南の島に、父は島役人として赴任していたことがあり、そこで女を作って夫婦同然に暮らしていたと聞いたのは、そのすぐ後のことだった。

父には、その南の島のことが、どうにも忘れられなかったものらしい。
私が七つの祝いを済ませた頃、父はまた上役に異動伺いを出した。願いはあっさりと認められ、父は再びその島で役人を務めることになった。

母はそれを聞かされて、そうですかとしか言わなかったが、その日の真夜中に、私が小用を足しに廊下を歩いていると、父母の言い争う声がした。

母が何やら責めている声に答えて…。
家長として跡継ぎを作るのが役目だと言うから、鹿児島に戻ったが、男子も生まれて七つまで無事育ったのだからもう役目は果たしたろう、もう自由にさせてくれ。
…と、父が言う声が聞こえた。
それにかぶせるように、わっと母が泣き伏すような声が続いた。

その翌朝、母は何事もなかったような顔をしていた。
その後も、父が山川港から島へ旅立つまで、母は乱れた様子を見せることはなかった。

それでも、あの晩の母の声は、私の耳に残っていた。
港の埠頭で母と手をつないで、父を乗せた船が、白い大きな帆を上げて港を去り、沖に向かって小さくなる姿を見ながら…。

もし自分が男に生まれてこなかったら…。
もっと病弱で、まだまだ親に心配をかけるような状態でいれば…。
母が泣くようなことにはならなかったのではないか、父が家を出て島に行ってしまうことはなかったのではないかと、くだらないことを繰り返し考えていた。

母は笑顔で船を見ていたが、私の手を握る母の手は、その間、ずっと細かく震えていた。

*****

ある朝早く、小娘の部屋を覗いてみると、小娘の姿が見えなかった。
いぎたない(朝寝坊な)あの娘にしては珍しいこともあるものだと思っていると、何やら押入れの中で人の動く気配がした。

押入れを開けて覗いてみると、小娘が布団にくるまって寝息を立てていた。
そして、大事そうに例の花を握りしめている。
いったい何をしているんだと呆れて見ていると、はっと目を覚まして、ひとの顔を見るなり、赤い顔をしてぶんぶんと両手を振りながら、
「これは、その…あの…」
と言い訳を始めた。

小娘が言うには、花の香りを楽しみたかったので、狭い所に入って寝れば、もっと香りがこもっていい気分で眠れるのではないかと思った…のだそうだ。
「馬鹿か、お前は」
「もう。馬鹿馬鹿言わないでくださいっ」
と、ただでさえよく動く瞳を、これでもかというほどくるくると動かして、抗議する。

まあ、花にしてみれば、小娘にそれだけ香りを楽しんでもらえれば、咲いたかいがあったというものだろう。

それにしても…そこまでやるか?

私が思わず大笑いしてしまうと、小娘は、今度は子供らしい眉を上下させながら、
「あっ、やっぱり馬鹿にしてますねっ」
と文句を言った。

まったくこの娘は、時々ひとの想像を超えるわけのわからないことをする。
つくづく観察しがいのあるやつだ、と私は思った。

あの花を植えろと命じた時には、まさかこんな面白いものを、毎日のように見られることになるとは思わなかったぞ。
私はなんとなく、あの球根を持ってきた男に、感謝したいような気分になっていた。

*****

その一週間後、洛北まで仕事に出た帰り道、細かい霧雨が降ってきた。

本降りの雨なら、どこかなじみの店で雨宿りをするなり、傘を借りるなりするところだが…。
特に濡れて困る荷物もなかったので、そのまま伏見の藩邸まで歩いて帰ることにした。

霧雨とはいえ、さすがにこの距離を歩くと冷えるな、と急ぎ足で歩いていると、伏見の近くまで来たところで、
「大久保さぁん」
と泣きそうな声が横合いから聞こえた。

そちらに目をやると、ある家の軒の下でうずくまって、小娘が半べそをかいていた。
何をしているのかと近づいてみれば、片足でひょこひょこ跳びながらこちらに寄ってくる。
どうも、草履の鼻緒を切ったらしい。

切って鼻緒の材料にしてもいいような、娘らしい柄の手ぬぐいは渡してある。
だが、この娘はいい年をして、鼻緒のすげ替え方さえ知らない。
どうしたらいいかわからず、誰ぞの軒下でしゃがみ込んで途方に暮れていたらしい。

見ると小脇に、傘を二本も抱えている。
どうやら、雨が降り出したので私を迎えに出たはいいが、藩邸を出ていくらも行かないうちに、鼻緒を切って歩けなくなったらしい。

「まったく使えん娘だな」
「…ごめんなさい」

いつもであれば、ひどいですと噛みついてくるところだ。たかだか雨の中で鼻緒を切った程度で、よほど不安に感じていたらしい。
やれやれ…。
私はため息をつくと、しゃがみ込んで小娘に背中を見せた。

「え…?」
「仕方がない、おぶってやる。ここから藩邸までなら、鼻緒を直すより、その方が早い」

小娘は、何やらしばらく硬直して、え、だの、あ、だのと、わけのわからない声を出していたが、そのうち素直に背中に体重をゆだねる感触がした。
同時に、ふわりと花の香りがした。

あの客間に寝起きしているうちに、どうやら百合の香りが、小娘の体にすっかり染みついてしまっていたようだ。
小娘は私の背中の上で傘を差していたが、私を濡らすまいと妙に頑張って傘を前に突き出すものだから、私の顔の横で小娘の袖がゆれて、花の香りがいっそう強く匂った。

何やら、花の精でも背負っているような気分になる。

「小娘は軽いな。もう少し肉を付けろ。これではどうにも色気がないぞ」
「もう。大久保さんだって、痩せすぎじゃないですか。もう少し食べた方が、健康そうに見えますよ」

先刻より多少元気になって、小娘が言い返す。
小娘の言うことなど、とりたててたいした内容ではないのだが、聞いていると、どういうわけか笑えてくる。

「あ、また何か馬鹿にしてるでしょう」

と、背中で小娘がぷりぷりと怒った声を出す。本人は真剣なのだろうが、どこか間が抜けていて愛らしい。

そのうちに、ふと私は思った。

父の愛した娘も、こんなふうに百合の花の香りがしたのかもしれない。
そう考えると、なんとはなしに、あんな昔のことはもう許してやってもいいじゃないかという気がしてきた。

そして…あの花を嫌っていたのは、母ではなくて私だったのかもしれないな。

しかし今では、あの花のことを考えると、なぜか自然に笑みが浮かぶ。

なにしろ、この小娘のやることは、一挙手一投足、なぜか笑えるようなことばかりだからな。
そんな笑える出来事のひとつひとつが、いつの間にか、あの花と結びついて、昔の嫌な思い出を全部かき消してくれたものらしい。

私がそんなことを考えていると、またふわりと花の香りをさせて、小娘が私の顔をのぞきこもうとしてきた。

「大久保さん、何を考えているんですか」
「小娘には、わからんことだ」

「ひっどぉい。どうせ私は馬鹿だから何もわかりませんよっ」

小娘は、さしてひどいとも思っていないような明るい口調でそう言うと、ずり落ちそうになったのか、あわててしがみついてきた。

「暴れるな」
「暴れてません」

花の精というより、おんぶお化けだな。いちいち手間のかかるやつだ。
だが、そんなやつとの、こんなくだらない会話が、なぜかとても貴重なものに思えた。

いつまでも、この馬鹿な小娘がそばにいて、わけのわからんことを言って笑わせてくれれば…他に望むものはない。
なぜかそんなことを、私は考えていた。

【Fin】


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