人物録

【さ】 2件

【税所篤 (さいしょあつし)】
1827年12月22日(文政10年11月5日)〜1910年(明治43年)6月21日
大久保さんの3才年上。
たぶん平方限(今の平之町)出身。
少年時代から精忠組のころまでの名前は喜三左衛門。幕恋のころから明治にかけての名前は長蔵。

大久保さんや西郷さんの少年時代からの友人。
加治屋町出身ではないので、藩校の造士館で年の近い西郷さんとつるむようになり、その縁で大久保さんとも仲良くなったと思われる。

大久保さん12才ころ、一緒に桜島に行ったらしい。
精忠組にも当初から加わっている。
この人の兄の乗願和尚が久光の碁の師匠で、大久保さんも碁を習い始めたことから、久光公に近づくきっかけができた。ちなみに、この時に大久保さんは税所さんも一緒に習おうと誘ったけど断られた。
明治以降は主に近畿地方で活躍。
明治6年末には堺県令として高師浜の松を伐採しようとして、大久保さんに止められる。
つまり、明治6年の政変では西郷さんと一緒に下野せず、西南戦争にも関与しなかった。


【迫田利済 (さこたとしなり)】
通称は太次右衛門。
西郷さんの最初の上司の郡奉行(こおりぶぎょう)。
つか西郷さんが16才の時に郡方書役助(こおりがたかきやくすけ)に配属されてから、10年くらいずっとこの人の下で働く。

同じ年に大久保さんは元服して大久保正助利済になります。同じ利済だけどこっちは「としさだ」なので、迫田さんとは無関係のようである。

郡方のお仕事は、各地の農村を回って年貢を集めたり、溜池や橋を作ったりして収穫が上がる手伝いをすること。
だけど当時の薩摩の農村の状態は悲惨で、年貢を取られると食べていけなくなるお百姓さんたちが多かった。
つか薩摩藩が借金500万両かかえてて、なんとか財政立て直そうと頑張ってる時だから、藩全体が超貧乏だったわけだが、そのあたりの事情は現場の下級役人には知らされていない。

迫田さんは強欲な藩のお偉方たちから弱い農民を守るぞ!と年貢を減らしてあげたり、自分のお金を回してあげたりして、がんばって皆を助けた。
自分は雨漏りのするボロ家に住んでいて、部下の西郷さんに役人のあるべき姿を熱く語った。
しかしある日、ノルマどおりの高い年貢を集めろと命じられ、「虫よ虫よ いつふし草の根を断つな 断たばおのれも共に枯れなん(虫よ、イネの根を切ったらお前も飢え死ぬぞ)」という歌を残して役人を辞め、間もなく亡くなる。



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