人物録

【た】 3件

【高見弥一 (たかみやいち)】
1831年2月(天保2年1月)〜1896年(明治29年)2月28日 享年65才

高見弥市という表記もある。幕末期は人名の一を市と書いていることが多く、大久保一蔵も市蔵になってたりする。

元土佐藩士で、その時の名前は大石団蔵。
文久2年(1862年)4月に吉田東洋を暗殺し、仲間2人と京都にいた長州の久坂玄瑞の元に逃げるが、5月9日に居場所がばれ、久坂から薩摩の海江田武次に託され、奈良原繁が保証人となって京都薩摩藩邸に潜伏する。
翌年8月17日に仲間2人は天誅組の変に加わり死ぬが、高見は不参加。10月には薩摩藩士に取り立てられる。
鹿児島の開成所で優秀な成績を上げたため、慶応元年に薩摩スチューデントの一人として英国留学し、帰国後は戊辰戦争に参加し、税関などに勤めた後、鹿児島で中学教諭となり、加治屋町にて死去。

寺田屋騒動の直後に、浪人嫌いの久光がよく土佐の脱藩浪士(しかも暗殺者)を匿うの許したなあ…。
海江田・奈良原は精忠組で大久保さんの幼馴染だし、開成所入学者と留学生の選抜には大久保さんの許可がいるので、大久保さんも高見の起用に関わってるのは確かです。
薩英戦争直後の大久保さんは、役に立つと見込んだらどんな背景を持つ人間でも気にしないで取り立ててましたが、この人もその一人らしいです。


【田中新兵衛 (たなかしんべえ)】
天保3年(1832年)〜文久3年5月26日(1863年7月11日)

いわゆる「幕末四大人斬り」の一人。以蔵の元相棒(つか新兵衛の方が6才年上)。
薩摩出身だが藩士ではない。薬種商、船頭、私領士(上級藩士の家来)などの説があるが、とにかく半次郎さんより身分は低い。
が、貧しさの点では、新兵衛の生家の方がましだったようである。

大久保さんとの接点は多い。
1859年ごろ、大久保さんたち精忠組がカツオ漁船で脱藩しようとしたとき、その船長だったのが新兵衛。
精忠組には加わっていないが、メンバーで資金提供者の森山新蔵を通じて協力していた。
1862年の久光公上洛では随員の選に漏れるが脱藩し自己資金で上京。
しかし寺田屋騒動で頼りの森山親子が死亡し、有村俊斎や藤井良節などに世話になる。
安政の大獄で弾圧の中心人物だった島田右近を暗殺する。これが京都の「天誅」の最初の事件。

で、なぜか当時薩摩と対立していたはずの武市さんと義兄弟の仲となり、以蔵や仲間たちと一緒に数々の暗殺事件を起こす。
攘夷派の公家、姉小路公知を暗殺したとして捕えられ、自殺。(朔平門外の変)
この事件が後の八月十八日の政変のきっかけとなる。


【丹宗庄右衛門 (たんそうしょうえもん)】
文化9年(1812年)〜明治8年(1875年)
薩摩の廻船問屋。

調所広郷の時代に密貿易で薩摩の財政回復に協力するが、天保9年(1853年)に江戸の問屋に密告されて八丈島に流される。
八丈島でサツマイモが栽培されているのを見て、薩摩から蒸留器を取り寄せ、芋焼酎の製造を開始する。
これにより、八丈島は鹿児島・宮崎と並ぶ芋焼酎の産地となる。



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