人物録

【な】 7件

【中岡初太郎 (なかおかはつたろう)】
生没年不詳。
慎ちゃんの甥。2番目のお姉さんのお京さんの子。

お京さんは初太郎君が8才のころまでに亡くなって、義母のお絹さんに育てられた。
慎ちゃんは初太郎君をたいへん可愛がっていたらしい。

明治4年に初太郎君は代三郎と名前を変えて、慎ちゃんの跡を継ぎ大庄屋になる。
その後、まあいろいろあって、名前を照行に変えて弁護士になり、少なくとも明治30年ぐらいまでは生きていたらしい。


【中川宮 (なかがわみや)】
文政7年2月27日(1824年3月27日)〜1891年(明治24年)10月25日

1862年に半次郎さんが上京して、守衛隊に加わることになった人。
1863年の八月十八日の政変の中心人物。変の後、公武合体派の中心人物として朝廷内で絶大な力を誇る。
1864年の池田屋事件の直前、長州過激派らに狙われてたのも、この人。
1866年12月に孝明天皇が崩御すると、急速に力を失う。

薩摩藩とも関係が深かったらしい。八一八では薩摩の高崎正風と協力。

名前がたくさんある。以下はまとめ。(xx宮は通称。xx法親王は法諱)

その他、
1837年 成憲親王
1838年 一乗院宮 尊応法親王(出家)
1852年 青蓮院宮or粟田宮 尊融法親王
1859年 獅子王院宮 尊融法親王
1863年(文久3年8月27日) 中川宮 尊融親王(還俗)
同年、中川宮 朝彦親王(元服)
弾正尹となり、その敬称の「尹宮(いんのみや)」と呼ばれるようになる
1864年 賀陽宮(かやのみや) 朝彦親王
1872年 伏見宮 朝彦親王
1875年 久邇宮 朝彦親王

ややこしい…。


【中西君尾 (なかにしきみお)】
祇園の芸妓。
勤王派びいきで有名で、数々の志士とのエピソードがある。

中でも、井上聞多が英国留学の前に、君尾から贈られた鏡が、後に暴漢に襲われた時に急所を守り一命を取り留めたという話は有名。

他に、近藤勇に口説かれたけど、勤王派じゃない人はイヤと断ったとか、新選組に連れ去られて拷問を受けたが、がんとして口を割らなかったところ、近藤が無駄な殺生はしないと解放したなんて話もある。

ある日、君尾さん、魚品というお茶屋のなじみ客の豪商がお公家さんごっこをしたいというので、君尾さんと同輩の芸妓が官女の格好で接客していた。
するとそのお座敷に、何で追われてたかは知らないけど半次郎さんが逃げ込んで来た。
君尾さん、すかさず追手に、「ここにおじゃるお方をどなたと心得る」と、その客が本物のお公家さんのお忍びだと言い張って、追い返した。
官女の服装が豪華なのと、君尾さんが自信たっぷりなのとで、追手もウソだろうとは言えずに、引き返したらしい。

しかし近くに薩摩藩がひいきの一力亭があるのに、あえて長州藩ひいきの魚品に逃げ込むあたりが、半次郎さんっぽいなあ…。


【中村太郎 (なかむらたろう)】
大久保さんの従者。幕恋当時14才。
大坂で孤児だったところを大久保さんに拾われ、中村太郎と名付けられる。拾われた時期は不明。
中村ってのは今でも鹿児島で一番多い姓なので、山田太郎とか鈴木一郎みたいなわりといい加減な命名である。
もしかして親が見つかるまでの一時預かりのつもりだったのかな。
しかし太郎君は大久保さんの元を離れず、共に東京に移り、大久保さんの馬車の御者になる。
(つーことは大久保さん、馬の扱い方も教えたんかな?)
紀尾井町の変では大久保さんをかばおうとして、一緒に斬られる。

馬車にはもうひとり馬丁の芳松さんというのが乗ってて、彼が助けを呼びに行った。この人の詳細は不明。


【中山中左衛門 (なかやまなかざえもん)】
1862年(文久2年)ごろ、久光公の側近は中山・小松・堀・大久保の4人いたが、中山さんが圧倒的に強く、他3人は逆らえなかった。
特に大久保さんは新入りだから、いちばん格下。
当時西郷さんは奄美大島に流されてて、大久保さんは懸命に訴えて、西郷さんを呼び戻してもらう。
ところが西郷さんと、久光公&中山さん、生理的に合わなかったようで、いきなり険悪になる。
中山さんは西郷さんの言動について、いちいち曲解した悪口を久光公に吹き込む。
京の過激志士を抑えに独断で上京した西郷さんを、志士を扇動するつもりだなんて中山さんが言うから、久光公は怒り狂って、西郷を捕えろと命令を出す。
大久保さんは、兵庫にいる西郷さんに追手が来ることをこっそり教えに行く。
このままでは西郷さんは殺されるかもしれない。京の精忠組の仲間たちも皆死ぬ気でいる…つか、彼らを討てという勅命が出そうだ。大久保さんは中山さんの妨害で久光公から遠ざけられちゃって、彼らをかばおうにも手が出せない。
大久保さん、つい、追い詰められて「西郷、私と一緒に死のう」と口走ってしまう。
その後、西郷さんは遠島になり、寺田屋騒動で9人が亡くなる。

中山さんは薩英戦争で失脚するんだけど、明治になって大久保さん暗殺を企てて捕まり、獄死する。
彼にも事情はあったと思うのですが…大久保さん目線だと、中山さん、完全に悪役キャラですね。


【長沼嘉兵衛 (ながぬまかへえ)】
生没年不詳。少なくとも安政6年より前に病死。
西郷さんの親友。
出生地も不明だが、たぶん下加治屋町。大久保さん18才ころには町内に住んでた記録がある。

西郷さんと大久保さんの二才時代、いつもいっしょにつるんで行動していた友だち。
精忠組の前進となる近思録の勉強会も一緒に始めるが、惜しいことに病気で早世してしまう。
頭が良くて動じない、ちょっと軍師っぽい性格の子だったらしいので、生きてれば志士としてかなり活躍したかも…と言われている。

薩摩の青年はだいたいいつも集団行動で群れてますが、このころ西郷さん・大久保さんコンビとよくつるんでいたとして名前が挙がるのが、他に有村俊斎(海江田信義)、堀又十郎(伊地知貞馨)、吉井仁左衛門(友実)、税所篤など。
西郷さんと堀・吉井・税所は年齢が近い。大久保さんは数才年下で生意気な弟分扱い。
有村俊斎は西郷さんの5才下で頭も悪いので、対等な友だち付き合いは少しきつい。けど、熱心さだけは人一倍で、いつも押しかけるようにして後をついて歩いてた。まあ、みそっかすというか、チビのトラブルメーカー扱い?


【南部信順 (なんぶのぶゆき)】
1814年3月2日(文化11年1月11日)〜1872年3月28日(明治5年2月20日) 享年58才
幕末の八戸藩主。第6代薩摩藩主の息子。福岡藩主黒田長溥の弟。
八戸藩には養子で入ったのだが、どういう経緯だったかは記録に残っていない。

黒田長溥と同じく、お由羅騒動の時に幕府に働きかけて斉彬派に味方し、助けてくれた殿様。
ただし福岡藩と真逆だったのは、この藩では尊王派vs佐幕派とか開国派vs攘夷派などの派閥争いが起きなかったこと。
どうやら殿様が、その手の運動をしそうな藩士がいるとすかさず遠方への仕事に出したりして、うまくガス抜きをしてたらしい。

んで戊辰戦争の時には周辺の諸藩が新政府軍と戦うために奥羽越列藩同盟を作る。この時、殿様は病気中。当然だけど東北諸藩は「おのれ薩賊!」と盛り上がってるから、薩摩出身の殿様の立場は非常に難しかった。
しかし八戸藩は家老も優秀で(部下を見る目があったんですな)、各方面からの圧力をのらりくらりとかわし続け、ついに戦らしい戦をせずに切り抜ける。

つまり、他藩と違い、幕末から維新にかけて、八戸藩では一人も死者を出さなかった。
八戸は東北だから、過去には冷害による飢饉で民が苦しんだが、この殿様は藩政改革も行い、藩を豊かにする。
つーわけで、八戸ではなかなか評判のいい名君である。



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