人物録

【よ】 2件

【吉井幸輔 (よしいこうすけ)】
1828年4月10日(文政11年2月26日)〜1891年(明治24年)4月22日 享年63才

幕恋の半次郎さん的ポジションに本来いるべき人物。
吉井仁左衛門、吉井友実ともいう。

武芸は強かったようですが、思想は薩摩藩士にしてはかなり平和主義。倒幕反対派。
とにかくこの人、薩摩の活動のおいしいシーンには必ず登場する。
かと言って、大久保さんや西郷さんの子分というわけでもなく、自分の意思で行動する。薩摩藩士の中で最初に龍馬さんと付き合い、特に親しかったのも彼。

たとえば、

1828年4月 大久保さんと同じ高麗町に生まれる(2才年上)
1850年代 斉彬公時代に大坂を中心に志士活動
1862年4月 寺田屋騒動の直前に大久保さんと一緒に行動
1862年6月 文久の改革の際に大久保さんと一緒に老中板倉を脅す
1866年1月 寺田屋で襲われた龍馬さんを護衛
1866年3月 龍馬さんのハネムーン中に家に泊め、息子に道案内させる
1867年10月 近江屋事件直前、龍馬さんに薩摩藩邸に来いと勧める
1867年11月 近江屋事件直後、現場に駆けつける
1869年2月 西郷さんの名を間違って役所に届け、隆盛にしてしまう
1869年7月 版籍奉還で大久保さんと天皇陛下とのパイプ役を担当

つまり彼の目から幕末を描くと非常にきれいにまとまるんで、主役を張ってもいいくらいのポジションですが、情報が少ないためドラマ等にはほとんど登場しません。


【吉村九助 (よしむらくすけ)】
吉村貞翁とも。読み方は不明。
明和5年(1768年)?〜没年不詳。文政7年(1824年)に57歳だったことと、鹿児島市の南林寺に墓があることは確定。
天保7年(1836年)に奄美大島附役地方検者に吉村九助という人物がいたという記録があるが、同じ人かどうかは不明。

彼の後孫の吉村貞ェは、薩英戦争の時に大山弥助と同じ部隊で戦ったと証言している。
薩摩の部隊は家の近い者同士で組むことが多いようですが、そすっと大久保さんとも知り合いか?嘉永年間の下加治屋町の地図には吉村家はない。

吉村九助は1824年にトカラ列島の宝島(屋久島と奄美大島の間)にイギリス捕鯨船が上陸し、牛などを略奪した際、十数人彼らと銃撃戦を行って一人を射殺した横目(島役人)。九助は幕府からお褒めの言葉をもらい、郡奉行に出世する。
同じ年に水戸でもイギリス捕鯨船が上陸したが、こちらは船員たちが壊血病だったので野菜を与えて帰した。近くの海で捕鯨船が30隻ほど操業していると言うので、彼らに二度と上陸するなと伝えろと言い添えたが、逆に捕鯨船の間では水戸へ行けば食料がもらえると噂が広まったのか、その後も何度も外国船が現れるようになり、水戸や近隣の藩を悩ませる種になる。
この事件により、薩摩・水戸の下級武士たちは外国人に甘い顔をするとつけ上がる、戦って追い払えば出世する、と学習してしまう。



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