用語集

【さ】 23件

【サーカス (さーかす)】
ジュール・ベルヌが1872年(明治4年)に発表した小説「80日間世界一周」には、日本がほんのチラッとだけ出て来る。
んで、どんな日本人が登場したかと言うと、侍でも芸者でもなくサーカス団である。
なんでサーカス?と思ったけど、実はちゃんと裏付けがあった。

日本の開国後、1866年(慶応2年)に初めてパスポートが発行された時、その第1号から第27号までの持ち主はサーカス団の曲芸師たちだった。
彼らは米国人リチャード・リズレーや日本人の隅田川浪五郎、浜碇定吉などに率いられて欧米各地を巡業し、パリ万博でも公演し、大喝采された。なもんで、当時の欧米人には日本=サーカスというイメージができたらしい。
サーカスでは現在でもリズレーという名前の技があるが、これは日本で足芸と呼ばれる軽業が伝わったもの。

このリズレーさんの一座はいわゆる曲馬団で、馬を使った技が多い。横浜に厩舎を持ち、そこで体操や乗馬の教室も開いていた。
ついでに牛も輸入して育て、牛乳やアイスクリームなどの乳製品、氷なども販売した。これが、日本でミルクを売ったいちばん古い記録。
また、公演のために日本で初めての西洋式劇場も建てた。


【西郷さんのイメージ (さいごうさんのいめえじ)】
ここの話を書くようになって、幕末から明治初期の情報を調べて、不思議に感じたことがある。

現代の西郷さんのイメージは、ずばり上野公園の銅像。
犬好きのほのぼのした小太りのおじさんである。
ただ、この銅像のできた明治31年より前の、西郷さんのイメージは、かなり違っていたらしい。

幕末から明治初期の資料を見ると、西郷さんは「怖い人のように思われているがそんなことはない」といった趣旨の表現があちこちに書いてある。
つまり、怖い人と思われてたんですな。確かに西郷星(西南戦争後に出現したという新星)などの錦絵だと、軍装で恨めし気なかなり怖い西郷さんが出てくる。
そこまで行かなくても、当時の錦絵に出てくる西郷さんの顔は、だいたいこんな感じ↓

かなりりりしいっス。

どうやら、同じ薩摩藩士の永山弥一郎という人の写真が、当時は西郷さんとして売られていたらしく、明治初期の西郷さんの絵は、永山さんそっくりなのが多い。

上野の銅像は、西郷さん=怖い人というイメージを払拭しようとして、作られたものなのかもしれないなーと思いました。
その薬が効きすぎて、今は西郷さんというとほのぼのイメージ一色なのかもしれません。


【桜島 (さくらじま)】
色々調べたところ、どうやら幕末期には火山活動は停止していたみたいです。
つい、煙が出てるとか書いちゃいましたが。

当時の桜島は大隅半島とつながっておらず、完全に島。(つながったのは大正の大噴火以降)
今と違って安全なので、火口まで登山道が通っており、ちょっとした家族旅行にぴったりの行楽地だった。
また、当時の掘削技術では鹿児島城下に温泉が掘れなかったので、桜島は手近な温泉地としても人気だった。

大久保さんも小さいころは家族ぐるみでふもとの古里温泉の彦作さんという人の宿に泊まり、登山を楽しんだらしい。
友人の税所篤と、イタズラもしたらしい。

桜島の火山活動が休止していたというのは歴史的にも重要。幕末に薩摩藩が活躍したのは、藩の経済が豊かだったから。
逆に、薩摩藩の財政がもっとも悪化した島津重豪の時代には、安永の大噴火が起きている。

また、薩摩では火山灰のために米がとれずに芋が主食の地域も多かった。芋は米に比べてタンパク質が少ないので、薩摩では江戸時代でも肉を食べる習慣が続いた。薩摩武士の強さは、日常的に狩りを行っていて、戦闘訓練ができていたからだという説もある。


【桜田門外の変  (さくらだもんがいのへん)】
安政7年(1860年)3月3日、井伊直弼が江戸城桜田門のすぐ外で、水戸藩士らに暗殺された事件。
なんで雛祭りの日かというと、江戸城内で行事があり、井伊が何時ごろ門を通るか、事前にわかったから。
大久保さんとは親の代からの付き合いの有村三兄弟の三男・四男が加わり、四男は当日自刃、三男は帰藩した後に藩命により切腹。(長男は早世)

当初は大久保さん達も脱藩してこれに加わる計画だったが、藩主親子に説得されて断念する。
なもんで、大久保さん達に見捨てられた有村兄弟は、水戸藩への義理で二人だけで参加…とよく言われるけど、違うみたいです。

どうも、久光公らが止めたのは大勢で脱藩して江戸に行くことだけで、暗殺計画は知ってて黙認してたっぽい。
もともと、斉彬公が上洛して勅諚をもらい、井伊大老の暴走を止めるという計画はあって、斉彬公の死で中断してた。なので精忠組内での大久保さんの分担は、久光を説得してこの上洛計画を実行させること。
京で井伊討つべしと勅命もらっちゃえば、江戸で暗殺に加わった有村兄弟は、罰せられずに命が助かるわけです。

結局、大久保さんは久光をその気にさせることはできたけど、幕府の目を気にする家老たちに反対され、計画は頓挫。有村三男をみすみす死なせてしまう。
滅多に感情的にならない大久保さんですが、この時ばかりは「ああ天や命や」と嘆きを綴ってます。


【酒寿司 (さけずし)】
薩摩の郷土料理。押し寿司の一種だが、酢を使わないことが特徴で、灰持酒(地酒)といわれる特別の酒を代わりに使用する。

重石を載せて押しておく時間は各家庭によっていろいろ。もともとは数日かけて酒を発酵させる「なれ寿司」だったらしいが、今では数時間程度で供することも多い。

具は、春の海の幸、山の幸を使うのが基本だが、細かい決まりはない。


【サスペンダー (さすぺんだー)】
幕末ごろの男性のズボンは、腰をベルトで留めない。
なぜかというと、また上がすごく深くて、ベルトで留めるとかっこ悪いデザインだからである。

幕恋の立ち絵だと、高杉さんは現代のズボンと似たようなのをはいていますが、当時としてはものすごいローライズだったってことになります。

で、ベルトがないとどうするかというと、サスペンダーで留める。
しかし当時はスナップ式ではない。ボタンである。

福澤諭吉が幕恋の翌年、1867年に書いた「西洋衣食住」という本には、そのへんが詳しく書かれている。

この本、特に大久保さんの洋装に近い服装が、肌着から上着まで順番に全て図解されている。
(言い換えると、洋装の大久保さんを脱がすとどういう構造になってるかがわかる)

現代の人間から見ると、和服より洋服の方がはるかに機能的に見えますが…。
福澤さんには洋服は不評である。特に当時はボタンだらけだったので、用を足す時にはまことに不便だったそうな。
まずズボンの前がチャックじゃない。ボタンである。
下着もゴム紐じゃない。ボタン留めである。
で、サスペンダーの前と後ろを留めているボタンをズボンから外さねばならない。

まあ、外すのはそれでも何とかなるとして。
さて一安心、となった後で、サスペンダーの後を再び留め直すのは、ボタンに慣れない幕末の人にとっては本当に面倒だったらしい。


【定小紋 (さだめこもん)】
大きな藩では、武士が江戸城に上がる時の裃の模様を決めていた。一種のユニフォーム。
小紋と言って一見無地に見えるほど細かい柄だが、複数の藩の武士が出入りする江戸城では便利に使われていたらしい。

各藩にひとつの柄というわけではなくて、小さい藩にはないし、大きい藩には複数ある場合もある。
特に格上の場合は、御留柄(おとめがら)といって町人が着ることを禁じた模様もあった。

薩摩藩の定小紋は大小あられ↓

それより高級な御留柄はニタリ鮫。(南の海に棲むサメ)

土佐藩は青海波↓

(画像は「ビバ!江戸」サイトの素材をお借りしました)
長州と会津は不明。

幕恋の時期にはまだ大久保さん、江戸城に上がれないからあんま関係ないっちゃないですが、藩のお仕事でも裃は着るので、大小あられの柄は持っていたはず。
むしろ明治になってしばらく、御所や二条城や江戸城で、毎日裃を着て新政府のお仕事をしてたので、この柄も活躍しました。
ところで裃って…呉服屋で仕立てるんじゃなくて、奥さんが縫うのがデフォらしいですね…。
小娘、縫えるのか?


【薩摩芋 (さつまいも)】
薩摩芋って、時代劇とかだと子どものおやつなんかによく出てくるので、昔からあったんだろうなあ…と思うけど、いつごろ日本各地に伝わったか、調べてみた。

鹿児島県ホムペがすごく詳しくてわかりやすいんだけど、琉球から種子島経由で薩摩に入って来たのは、1705年。
当時、富士山の噴火や飢饉などで、コメが不作でもたくさん取れる作物が求められていたため、1730年代には全国的に栽培されるようになった。

1789年にはサツマイモの料理だけを集めた料理本「甘藷百珍」も作られ、けっこうベストセラーになる。(ま、百珍本は他の食材でも大ヒットしたけど)

京都には1716年に、硫黄島に島流しになってた薬種問屋の島利兵衛って人が赦免されて持ち帰ったそうである。

江戸時代の冬の風物詩といえば焼き芋屋だけど、味が栗に近いというので「八里半」という看板を掲げて売ってたら、対抗して別の店が「栗より(九里四里)うまい十三里」という看板を出したって話が、ちょっと馬鹿馬鹿しくて好きです。


【薩摩下駄 (さつまげた)】
薩摩の男性がよく履いていた高下駄。二本歯で、差し込み式でなく一本の木からくりぬいたタイプ。
鼻緒はたいがい白くて太い。

明治の書生さんや、昭和初期の番長なんかが履いてる下駄はこれ。…要するにこれを履くと、かなり見た目が男っぽくなる。
この手の「バンカラ」スタイルには、薩摩下駄と腰の手ぬぐいは必須アイテムである。

明治のころに書かれたものには、半次郎さんはこれを履いていたみたいに書いてあるのが多いんだけど…んなもん履いて戦えるか?とちょっと疑問です。
ま、それ言ったらマンガの番長は下駄使いまくって戦ってますが。

下駄には無骨なイメージがありますが、藩によっては上士にしか許されていなかった。幕恋メンバーだと龍馬さん・慎ちゃん・以蔵は、土佐では下駄を履けません。(脱藩してからはいいかもしんないけど)


【薩摩拵 (さつまこしらえ)】
薩摩藩士の刀の特徴。
鍔が小さく柄が長く大きい。柄の反りが逆でゆるいS字型をしていることが多いので、武骨な印象を与える。
太刀なので、ふつうの打刀と違って、小柄(携帯ナイフのようなもの)を挿す場所はない。
鞘は鮫皮でなく牛革を使うことが多い。

こういう刀を差しているので、町を歩いていると薩摩藩士はすぐわかった。
大久保さんの場合、家紋をあしらった長羽織まで着てるんで、和装の場合、「薩摩の大久保だぞ」と常に主張している格好になる。

幕恋では龍馬さんの刀も大久保さんのと似ていて、鍔が小さく鞘が赤っぽい。
龍馬さんは薩長同盟で走り回っていたころ、鍔細の刀を差していたという記録がある。この刀は大久保さんにもらったもの。
なので、立ち絵の龍馬さんの刀も、薩摩拵えかもね。


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