用語集

【し】 33件

【塩 (しお)】
幕末のころの塩は主に瀬戸内海沿岸の十の藩で作られており、全国シェアの8〜9割を占めていた。

特に長州の三田尻は全国2位の塩産地。
関門海峡を越えればすぐに日本海だから、すぐ隣の境港から、果ては北海道の小樽まで、日本海岸の各地と北前船で塩の交易をしていた。
幕末に長州藩が軍艦やら銃やら買えたのは、塩・紙・ロウの三白と呼ばれる商品を売って儲けていたから。

塩は海のそばの塩浜と言われる場所で作られており、潮の満ち引きを利用して少しずつ取り込んだ海水を日光で何日かかけて濃縮し、最後に鍋で煮詰める仕組み。
だから波の穏やかで晴れの多い瀬戸内海じゃないとなかなか難しい。

一方、土佐藩では雨が多すぎて(2010年の年間降水量全国1位は高知県)、塩が作れない。土佐では塩は貴重品だった。
武市先生…あまり無駄遣いはしないように…。

ちなみに清めの塩という概念はカトリックにもあるので、西洋の魔物にも塩をまくのは有効。
ただし乾さんの場合はアユの塩焼きが大好物で三度三度食べてたくらいなんで…塩はまったく効果がないですね。


【塩豚 (しおぶた)】
徳川慶喜が小松さんにねだって巻き上げたという塩漬け豚。

沖縄ではスーチカーという、この塩豚、作り方は簡単だけど、確かにうまい。
豚肉の塊に塩をすり込んで、二日から一週間、熟成させるだけ。

豚肉というのは、どういう化学反応か知らないけど、塩分を加えて寝かせると、旨味が非常に増す性質があります。
一度、だまされたと思ってお試しあれ。まじ、うまいっス。

ただ、豚肉に塩すりこんだだけだと一週間くらいしかもたない。
これだと、薩摩から船で運んできて献上したとか、賞味期間が一年くらいだったって当時の記録と食い違う。

でもってさらに調べてみると、薩摩では塩豚を軒先につるして、必要に応じて削り取って使っていたらしい。
これって、世界三大ハムと言われる中国の金華ハムやスペインのハモン・セラーノなどの生ハムとほぼ同じ製法。
確かに生ハムなら賞味期間は1年間くらいだし、ちょうだいちょうだいと言いたくなるくらい美味い。

1729年にロシアに漂着した薩摩のゴンザという少年が作った辞書では、ハムを塩豚と訳しているとのこと。

金華ハムの本場の浙江省は、鹿児島からも沖縄からも中国の省の中ではもっとも近い位置にある。
16世紀の火縄銃伝来のころにはすでに薩摩で養豚が行われていたけど、大航海時代のスペイン船の食糧倉にはたいがいハモンが積まれていた。


【死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし (ししてふきゅうのみこみあらばいつでもしぬべし)】
これは大久保さんじゃなくて高杉さんの話。

高杉さんは、まあ小さいころ体弱かったそうだから、そのせいもあるのかもしれないけど、どうも少年期から自分は若死にすると信じてたんじゃないかという言動が多い。

二十歳のころには、師匠の吉田松陰に、男子の死とはどうあるべきかなんて質問をしている。
で、師匠の答えは

死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし
生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし

まあ要するに、早死にしようが老衰で死のうが、そんなことはどうでもよろしい。おのれの信じることをやろうとしたときに、死が避けられなくても恐れず進め、生き残らねば目的が果たせなければ、何としても生き延びろってことです。

その後の高杉さんの言動を見ていると、この師匠の言葉が、常に頭の隅にあったのかなあ…と思えます。

おもしろきこともなき世をおもしろく

だって、根本の思想は同じだしね。
なんか亡くなる前ぐらいの態度とか、全然じたばたしてなくて、妙に達観してる感じがするのは、やっぱ師匠の言葉のせいもあるのかなあ…と思います。


【しじみ売り (しじみうり)】
古典落語の演目のひとつ。
いろんなバージョンがありますが、立川志の輔さんのがお気に入り♪
泣ける人情話ですが、そのへんの情感をすっとばして、大雑把にあらすじを言うと…

ある料理屋で鼠小僧次郎吉が子分と飲んでいると、貧しいしじみ売りの男の子が、店にしじみを売りに来る。
鼠小僧は可哀相に思って、その子のしじみを全部買ってやり、金をやろうとするが、断られる。
なぜかと聞くと、今病気で寝ている姉が、かつて大店の若旦那と駆け落ち中に親切な人にお金をもらったが、それは盗まれた金だった。
若旦那は捕まって牢屋に入れられ、男の子の姉は心痛のあまり病気になってしまった。だから、人からお金をもらってはいけないと言う。
鼠小僧は、その盗んだ金をやったのは自分だと気づく。
そして、男の子にきれいな盗んだわけではない金を渡した後で、自首することを決意する。

志の輔さんの鼠小僧が、かっこいいんだなあ。
(= ̄ ェ  ̄=)♪

しじみ売りというネタは上方落語にもあります。

大阪や江戸には、各大名の蔵屋敷があって、年貢米を売って金にするため、米俵が川舟を使って次々と運び込まれていました。で、その時に俵の隙間から米粒がこぼれて川に落ちる。それを食べて太ったシジミが、特にうまいというので、江戸なんかでは御蔵蜆という名前で、高く売られていたそうです。


【竹刀 (しない)】
小娘の謎のひとつ。
ふつうの竹刀は115cmくらいあって、竹刀袋に入れて持ち歩くものですが…小娘の竹刀はかなり小型のようで、スクバに紛れて見落とされたりする。
どういう構造なんだろう?


【芝居 (しばい)】
高杉さんは小娘に堂々と芝居の見栄を切って見せたりしていますが、実は表向き、武士は芝居を見物してはいけないことになっていました。

ま、高杉さんなら気にしないと思うし、江戸遊学先の思誠塾(向島)も昌平黌(湯島)も、芝居小屋の多い浅草に近い上、授業がつまんなくて真面目に受けなかったそうなので、けっこう芝居見物はしていたと思われます。

武士が芝居小屋など、町人の集まる所に行ってはいけない理由は、刀を持っているから。
武士にとって、刀や体にぶつかられることは非常に不名誉で、場合によっては切捨御免に及んでもいいことになっていた。(ただし後で調べられて、正当性を認められなければ殺人罪になる)

なので武士は芝居小屋の入口で刀を預けて、武士らしくない格好で入らないといけない。高杉さんくらい身分が高いと、顔も頭巾や手拭でおおわないといけない。本人がやったかどうかしらないけど。

武家の女性も同じで、身分の高い家の娘であれば、芝居を見たというだけで、本人は嫁に行けずに実家押し込め、伴の者は切腹ということもあった。

半次郎さんは後年、悪びれずに愛宕で芝居見たって平気で言っちゃったりしてますが…。
これは薩摩の下級武士に、教育水準が低くて、そういう作法を知らない人が多かったのと、明治になってからの発言だったからだと思われます。


【射撃 (しゃげき)】
大久保さん洋装は、イギリス貴族のキツネ狩りの略装。
なもんで、大久保さんにライフル持たせて構えた格好とか、脳内で妄想した回数は百じゃききません。
((=#´ ェ `#=)♪

しかし幕恋だといつも護衛されちゃう立場ってこともあって、銃は下手の横好きかなんかかなあ…とちょっとナメてました。
いちおう大久保さん、史実だと正助時代から鉄砲を習ってたし、趣味は狩猟で休みになると出かけてたってことは知ってましたが…。

明治になってからですが、ご本人が友人に書いた手紙に、ある日猟に出かけて「小生鳩十四羽、小鳥五羽撃ち取り」と書いてある。
ライフルで数十メートル先を飛んでる野鳥に、こんだけ当てるって、かなり腕利きじゃないか?

大久保さん、馬鹿にしててすんません…(=T ェ T=)
これからは、スナイパー大久保、と呼ばせていただきやす。

ところで薩摩の鉄砲戦法には、捨て奸(すてがまり)ってぇ凄絶なやつがありまして…。
大軍に追われた時に味方を先に逃がし、たった一人でその場に踏みとどまって、ひたすら銃を撃ちまくる。弾が切れたら抜刀して敵軍に斬り込んでく。
もちろん自分は死ぬ覚悟でやってます。大切な人が逃げ切るまでの時間稼ぎができればそれでいい。

うちのサイトの大久保さんも、追い詰められたら小娘ちゃん逃がすためにそんくらいやるだろなあ…とか、勝手に妄想してみたりする。


【写真 (しゃしん)】
幕末志士、特に長州藩士の写真は、幕恋の時代と同じ1866年に長崎の上野撮影局で撮影されたものが多い。
これは、高杉さんが写真好きで知り合いをやたら連れてったせいらしいって噂がある。
龍馬さんは、写真師の練習相手だったから写真が多いんだそうな。

京都にも祇園近くの大坂屋与兵衛など、いくつか撮影所があった。大坂屋は女性モデルや小道具を使って、架空の舞台設定を作って撮るサービスが特徴。
慎ちゃんや半次郎さんや近藤さんの写真は、京都で撮影したもの。

技術面で見ると、1865年以降は湿板方式の写真が広まり、撮影に最短で15秒程度しかかからなくなった。
武市√では写真撮影にものすごく時間がかかり、ガラス板の写真をもらうという話が出てくる。
湿板方式は撮影自体には時間がかからないが、当時はガラス板が貴重な上、撮影の機会も一生に一度だったりするので、思うような写真が撮れるまで何度もガラス板を洗って薬液を塗り直した。この準備には1回30分以上かかるので、結局撮影が終わるのにはかなり時間がかかったらしい。

湿板の利点は、ネガ方式なので焼き増しができること。
肖像権って概念のない時代なので、特に明治以降、志士など有名人の写真は、ブロマイドのような扱いで絵草紙屋などで売られるようになる。
特に桂(木戸)さんの洋装写真は女性に絶大な人気があり、男性の洋装普及に一役買ったと言われています。


【集団登校 (しゅうだんとうこう)】
「水泳」のところで薩摩のチビっ子の平均的一日を書いたけど、14才で元服してからはこうなる↓

午前6〜8時 郷中で子どもたちの指導
8〜10時 自分の勉強と移動
10時〜午後2時 藩庁でお仕事または藩校(造士館)で授業
午後2時〜午後6時 藩の道場(演武館)または寺や学者のとこで修行
午後6時〜深夜 郷中に戻って先輩から夜話(講義)や詮議(ディスカッション)。飲酒OK。

忙しいなあ。
藩校に通ってる場合、毎日加治屋町からお城近くまで1.5kmくらい歩いて登校するわけですが、年上の子が年下の子たちを引率して、グループで登校するのが決まりでした。

加治屋町だと引率はもちろん西郷さんですね。大久保さんは引率が回って来そうな年齢の時には、謹慎食らってたので、たぶんやってない。

ちなみに、藩校は原則的に長男で頭のいい子しか行けません。(次男でも顔出してた大山弥助とか、例外はいる)
つまり、この集団登校グループのメンツって、郷中の男の子たちのボスと取り巻きってことになる。
んで、この子らが集団で郷中を出てお城まで歩いてると、時々他の郷中のグループと道で行き合う。年下の血気盛んなのがガンを飛ばし、向こうも何を!とケンカ腰になり、年上がまあまあといなして…とけっこう世話が焼けたらしい。そういう小ぜりあいを通じて、薩摩兵児は部隊行動を学んで行くわけです。


【修行中心得大意 (しゅぎょうちゅうこころえたいい)】
嘉永6年(1853年)に龍馬さんが初めて江戸に剣術修行に出かける時に、お父さんからもらった訓戒状。

一、片時も不忘忠孝 修行第一之事
一、諸道具ニ心移り 銀銭不費事
一、色情ニうつり 国家之大事をわすれ、心得違有間じき事
右 三ヶ条胸中ニ染メ修行をつミ 目出度帰国専一ニ候 以上

要するに
@家族や殿様のために真面目に修行しろ
A無駄遣いをするな
B日本がたいへんだというこのご時世に女にうつつを抜かして間違いを起こすな
3か条を心に留めて修行を積み、無事成果を上げて土佐に帰って来ることだけを考えなさい

龍馬さんは言いつけどおり頑張って一年間修行を積んで帰国し、お父さんはその一年半後に亡くなる。
龍馬さんはこの訓戒状をお守り袋に入れて、生涯大切に持ち歩いたと言われている。


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